Blind Plutus
Manifesto
概要
我々はこの宣言をもって、資本主義が内包してきた一神教的性格を暴き、近代の克服へ向かう運動を組織する。資本主義とは、その中心に商品化を据えることで成立した世俗経済であり、万物を経済的価値へと還元し、世界の多様な諸相を一元化してきた支配の形式である。我々が唱えるのは、この世俗経済に対する単なる批判や修正ではなく、その根本に対抗するオルタナティヴの提案である。
I.
II.
Proceed to signature
III.
世俗経済論
時代は一九世紀へと遡る。神の威光降りすさぶ封建主義の地平、そのヴェールに身を包み、権力を振るう王とその臣下。そして、周縁で救いと信仰に献身する人民。こうした幾世紀をも画する近代、その到来を決定づけたのは神の死と資本主義にある。如何なる共同体も父なる政治が形を与え、母なる経済が命を与える。秩序と循環、その結合こそ、我々人類の住まう「社会」である。かつて社会とは、神話と宗教が人々を縫い合わせることでその骨格を築き、贈与と再分配が血潮として人々を巡ることでその乏しい生を潤していた。だがわずか一世紀にして、幾千年と人類社会を支えてきた政治と経済の双柱は、その支配的地位から没落する。人間の温もりのうちにあった経済は青ざめ、替わりに交換という人称性を欠いた無機質な論理が露出し、骨格を失った社会は、もはや中心を保てず、人々は結び目を解かれた糸のように解体された。かくして個人主義的で、合理主義、そして機械的な世俗経済が到来する。ゆえに神の死と資本主義とは、人類史のなかで近代とそれ以前を完全に分つ、我々が初めて直面した歴史的大転換を意味するのだ。
こうして時代を画したこの二つの出来事には、しばしば根本的な誤謬が見られる。それは、表層的な差異に目を奪われ、両者に潜む深層の同一性が抜け落ちたことに他ならない。マリノフスキーやモースをはじめとする多くの人類学者が示したように、あらゆる社会において政治と経済は独立した次元になく、形と命は始原から絡み合い、互いの次元を養いながらひとつの構造を紡いできた。近代、神の死と資本主義もまたその共犯関係にある。そして、その結託を完成させた存在こそ、万物の商品化である。近代における経済的価値とは世俗的価値の典型に他ならない。商品化とは対象を実用性に代表される経済的価値へと還元し、資本主義は万物をこの原理に適応させた。本来対象がもつ宗教的、芸術的、文学的価値などの多様で豊かな様相は商品化を通じ、経済的価値へと還元され、市場へと出荷される。その結果、価格というラベルをつけられ、陳列された対象をみて我々はその存在を確認するのだ。マルクス曰く「貨幣は人間のあらゆる神々を堕落させ ― それらを商品へと変える」。すなわち、商品化という一連の過程を通じて、人間を取り囲むあらゆる対象は脱神聖化される。
マーク・フィッシャー曰くかつて神殿には、儀式があり、祈りがあり、そして暮らしがあった。香が立ちのぼり、鐘が風とともに鳴り、子らの笑いが回廊を満たした。人々はそこで祈り、食し、語らい、歌い、死んでゆく。文化的事物とは元来、このようにして人々と社会的で政治的で宗教的な相互関係を営んでいた。しかし、資本主義は祭壇画だけを切り出し、美術館へと移送する。ホワイトキューブに閉じこめられた仏像や、ルーブルの勝ちとったミロのヴィーナス、大英博物館のツタンカーメンとはいわば頸から落ちた頭蓋、肩から抜けた魂、顔面から飛び出た眼球であり、かつて人々とともに呼吸していた文化の屍に残されたものはもはや生の温度ではなく、保存のための冷気 — 文明の死臭を放つ標本である。こうしてコンテクストを破壊され、文化的次元のひき剥がされたオブジェクトは、それを観賞する存在にとって単なる知的或いは美的対象以上のなんの関係も持たない。まるで作品と人々を隔てる硝子のようにオブジェクトとの連続性を絶たれ、客観化された観客的態度は、かつて、人々がオブジェクトと結んだ、関与し、参加する主体的態度とは非常に対照的であり、この地点において、オブジェクトはその域を超え、我々にまで死を到来させる。勿論、一連のすべてが、神の死と資本主義そのものの所産にあるとするは性急である。しかしその構造的同時代性を偶然と呼ぶには、あまりにも美しく、あまりにも啓示的だ。まるで世界が神の終焉を一篇の寓話として演出したかのように、それは資本主義によって世俗化されゆく世界、その象徴に相応しい。
神の死―それは資本主義の進行とともにオブジェクトのレヴェルで伝播し、急速に蔓延した現象であり、いまや我々の呼吸にまで入り込んでいるのだ。それはまるで万物が神の被造物として聖性を宿し、その基で生活が織りなされていたかつてのように、あらゆる次元を無化された商品に日々囲まれ、我々はその消費者となることで、考え、働き、食べ、眠り、神の死は身体化される。かくして世俗化は完成された。資本主義という公理のもと商品化は、絶えず、そして不断にあらゆるオブジェクトを侵食することで神の死という事件を日常に再演、再生産するのだ。これこそが、人類の置かれた現在地に他ならない。ここに神の死の一般性が示された。いまや世俗的な交換の全世界的下部構造の上に、多元的に隔たれ、分化された上部構造が存在するのであり、宗教や信仰、イデオロギーの特殊性が下部構造において消去されることで初めて、世界は統一され、共有された。これこそが世俗化と一元化を加速させた資本主義的グローバリズムの正体である。救いを求めながらも、死を宿す交換に加担せねばならず、祈りを捧げながらも、等価性の墓標を踏みしめる。人類の多くはこの分裂のもとに生きている。すなわち、世俗経済とは下部構造における神の死を意味するのだ。商品は神の死をそのうちに運び、交換の客観的編成という死の舞踏へと我々を招待する。ボードリヤールが言うように、死こそが普遍等価性そのものであり、すなわち、万物の商品化こそがあらゆる文化的、社会的、政治的、宗教的オブジェクトを単なる経済的なオブジェクトへと還元することで、人類からあらゆる次元をひき剥がし、その姿を観客的あるいは客観主義的消費者へと変え、すべてのオブジェクトを比較可能にし、価値の相対化を、世界の世俗化を、すなわち近代を完成させたのであった。
一神教的資本主義
しかし、神の死と資本主義の共犯関係をその慧眼をもって暴いたマルクスは、同時にこうも告げる。その原理はかの一神教のようである、と。人々が資本主義で生き延びるには、あまねく事物を商品へと変貌させ、個人に与えられた労働や関係、時には想い、時間すらも価値の尺度へと切り分けて、資本主義へと献上しなければならない。すなわち、世界はひとつの巨大な供犠場と化し、そのすべては経済への奉仕へと還元された。それはまるで聖書に記されたいにしえの戒律であった。「汝は私の他に神をもってはならない」、「汝はいかなる像をも造ってはならない」。この言葉は、もはや救済を齎す箴言ではない。むしろ、彼岸からの神託を奪い、世俗への命令に転倒させた資本の律法そのものである。近代とは神の死に始まり、その果て、下部構造の世俗化を組織する。がしかし、その経済は同時に、極めて一神教的である。ヴァルター・ベンヤミンはこのことを『宗教としての資本主義』という草稿にて、資本主義がその神性の隠蔽を基礎づけとすると論じた。いわば近代資本主義とは、自らの神性を偽り、あらゆる神へ死を宣告する経済原理。世俗の仮面を被った新たなる唯一神の誕生であるのだ。自らを神に非ずと装うことで、神の死を掲げながらその座に留まり、他の一才を虚構とし、自らのみを崇めよと命じる。世界はその欺瞞のうちに統一されている。その名を呼ぶ者はいない。だが、誰もがその前にひざまずいている。その姿を見た者はいない。だが、誰もがその祭儀にとりこまれている。曰く「神の超越は地に堕ちてしまった。しかし神は死んだのではなく、人間の運命のなかに取り込まれた」。すなわち、崇高なるものはもはや天上にあらず、市場と利潤の秩序の背後に降臨し、資本主義は新たなる一神教を組織する。神の死によって成立した資本主義という神、近代が示すこのアンチノミーはかくして調停された。我々が論じるのは一つの経済神学、すなわち、封建主義的一神教に替わり、その空席に座したのは人間存在になく、資本主義的一神教なのである。
したがって、我々は、自由を求める革命が失敗に終わったと今一度認識しなければならない。いまや誕生したのは、王権神授に替わる資権神授。いわば、王−民の図式は、資本家−労働者へと置き換わり、我々人類の多くは、王に替わる主人としての資本家へ仕える。これこそが「封建主義的搾取から資本主義的搾取」というマルクスの記した一神教的構造の転移であり、解放を求め、新たなる奴隷へと陥った人類への悲哀である。そしてここにこそ、ベンヤミンが喝破した資本主義のもっとも深淵な神学的構造〈Schuld〉──罪責と負債のデーモニッシュな両義性──が姿を現す。ニーチェはベンヤミン以前に、罪責が負債として生成され、人間の内面へと沈殿してゆく〈Schuld〉の象徴性を暴いた。それは祖先や神話、そして歴史に象徴的な「前史的なもの」からの負債関係、曰く「みずからの種族は祖先の犠牲と働きの力だけによって存続しているのだという確信であり、これにはみずからの犠牲と働きによって返礼しなければならないという確信である」。如何なる時代にも我々が受ける恩恵とは、かつての人類が築いた所産であり、よって如何なる時代にも我々は前史的なものとの負債関係から逃れることはできないのだ。アダム以降、いやアダムでさえも、前史的なものの恩恵に授かっている。それはまさしく神の恩寵であり、前史的負債の後退は神話へと最終的に帰結する。そして、ニーチェ曰く、前史的負債の起源として存する神との関係こそが、罪として解釈されたのであり、ゆえに返済は贖罪として現れたのだ。この前史的負債の当意は、原初より現代まで、生のすべてを捧げることを要請する。なぜならば我々の恩恵は、かつての偉大なる産物の計り知れない蓄積によって創造されたものだとし、それを継承し、返済、贖罪することは、死でもってしか終わることのない、無限の当意論なのだ。しかし、今や救済は存在しない。ベンヤミンはこうしたニーチェの分析を踏襲し、Schuldを資本主義の内部に秘められた支配的構造と論じる。すなわち、この構造は、資本主義において一つの極点へと至るのだ。いまや前史的負債とは観念的問題ではなく、経済的問題として全面化された。社会保障とは祖先崇拝の制度化であり、国債の常態化は国家へ不断の成長を義務づける。すなわち今日の前史的負債は、使命や意志を超えた現実問題として、我々の生すべてを資本に捧ぐことを共同体の条件とするのだ。ここに前史的負債の経済化がみられるのであり、終わりなき無限の返済に駆られる僕たちは、それを無限の成長、すなわち進歩主義と読み替え、自らを戒めてきた。ゆえに、ホモ・エコノミクス(Homo economicus)とは、ホモ・シュルト(Homo Schuld)に他ならず、彼らの唯一の帰結は、資本主義の供犠そのものに、より一層いそしむことであった。こうして人間の豊かな諸相やオルタナティヴは消失し、すべてが経済のもとへと捧げられ、やがて人々は、資本主義を唯一の現実とみなす。しかし、その果て、新たなる唯一神は我々に救いを与えない。我々人類に残されたのは永遠に癒えることのない、ただ罪のみであった。
しかし罪性とは、当為論的問題に留まらない。封建主義的一神教が罪を存在論的基礎としたように、資本主義的一神教においてもまた、罪は存在論的基礎として遍在する。この地平において、要諦となるのはマルクスの疎外論にある。マルクス曰く、資本主義において労働とは、人類が自らに内在する諸力を商品として外化、客体化する行為として現れた。しかし、生産対象が主体へと帰属せず、商品として、交換の客観的編成へと組みこまれることは、主体を支配する資本として自らと対立することに他ならない。よって資本主義により一層勤しめば、勤しむほどに、世界は外的な諸力として立ち現れるのであり、万物は敵対的な関係として、主体は世界から疎外されるのだ。ゆえに、マルクス自身、残された僅かな安らぎを生産ではなく消費の次元に見出そうとしたが、その射程はやがてフロムやルフェーブルらの手によって、生産と消費のあまねく局面に潜む構造として暴かれた。ゆえに、近代以降の我々人類とはまるでフリュギアの寓話、欲望に溺れ、自らを世界から疎外したミダス王である。富の栄光を求め、触ったものの全てを黄金に変える権能を有し、それがゆえに飢えと乾きに苦しむこの物語は資本主義に予言的な一つの存在論的神話である。すなわち、我々人類はどこへ行けども、世界から疎外され、万物へ触れることさえも、ミダスの呪いに阻まれ、本質は開示されず、価格としてのみ現れ、存在論的飢餓に溺れゆく。マルクス曰く、疎外とは現実の喪失に他ならず、「労働が現実化すればするほど、それは労働者にとって現実の喪失として立ち現れ、ついには餓死するに至るまで、人間は現実を奪われていく」。したがって、ヘルベルト・マルクーゼは疎外とは単に経済学的事実ではなく、存在論的問題であるとした。その意味で神学者パウロ・ティリッヒはマルクスの論じた疎外を、罪の近代的、或いは世俗的ヴァリエーションとみなすのだ。オイゼルマン曰く「実存主義的疎外観は人間の資本主義的疎外によって呼びおこされた」。神の死と資本主義と共に台頭した実存主義と精神分析、そしてその対象とされた近代の存在論的不安。こうした一連の近代的運動とは別の名を持つ同一の志向性であり、ひとつの未分化なる円環をなしている。彼岸に満ちていた神的全体性からの堕罪と、現世に織りこまれていた有機的諸関係からの疎外、両者は共に世界の喪失として現れるのであり、いわば疎外とは、第二の堕罪であるのだ。
近代資本主義におけるすべての重要概念は世俗化された神学概念にほかならない。かくして一神教的資本主義とは、罪をその存在論的、ひいては当為論的基礎とし、無限の奉仕へと駆りたてることで、万物の商品化を、すなわち、経済の専制を樹立した。自らの神名を捨て、信仰を生活のヴェールに隠蔽することで、神の死から逃れ、もはや己が武器とし、自らのみを現実と謳う唯一神。ベンヤミンはその名を、思索の断片にプルートスと記す。
プルートス神話
アリストファネスは紀元前、資本主義の創世記ともとれる、予言の書を記した。その物語こそ、富を司る者にして豊穣の女神デメテルの子──プルートスの神話である。物語の幕開けは、ひとつの喪失に始まる。最高神の裁きによって視を奪われた富神プルートス。永い闇の底で富の行く先も、その重みも、何ひとつ見通せぬまま、世界は長いあいだ、彼の沈黙の上に築かれていた。しかし、ある時、愚かしくも正義に満ちた無垢なるクレミュロスとその一行が、最高神の意に反旗を翻し、その封印へと手を伸ばす。彼らは、富がその呪縛から解き放たれ、腐敗した権力を打ち倒し、世界を照らす未来を願ったのだ。かくして采配の権能は、かつての主のもとへ、本来の座に復した。覚醒したプルートス。彼らはその復活を賛美し、歓びを舞い、きたる理想郷へ想いを馳せる。その姿はまるで権威の下に支配された富を解放し、その自由な発展が織りなす未来へと希望を抱く経済自由主義者、ひいては進歩主義者のようであった。ウォーラーステイン曰く「進歩の観念こそは、封建制から資本主義への移行過程全体を正当化するものである。それは、万物の商品化に反対する〔封建〕遺制を打倒する行為を正当化し、弊害を遥かに凌駕する利益があるという理由で、資本主義批判を一掃する役割をも果たした」。しかし、彼らは知る由もなかった。富の眼が開かれるというただそれだけのことが、世界の原理を反転させるということを。富が解放されるというただそれだけのことが、神々の秩序を崩壊させるということを。そして終章、覚醒したプルートスはその見えざる手によって、采配の権能を振う。富は神によって導かれ、供給され、再編された。しかし、一つの神が統べる論理へ統合され、収束する富は、その偶然性があまねく多様性を開花させたように、その偏在性によって人間を一元化させる。よって、多くの神々は窮乏した。なぜならば人々の心は多なる神々から離れ、祈りは絶え、供物は祭壇より消え失せたのだ。すなわち、神の多様性とは、富の偶然性によって──すなわちプルートスの盲目によって──支えられ、多神教としてあり続けたのだ。そしてその果て、富はかの最高神までをも屈服させる。物語の終幕、かつてのあまねく神々を自らの配下に秩序づけたプルートスは、最高神の名を我がものとした。だが、それはかつての意味にない。かつての秩序に位階はあれど、あらゆる神々は己が信仰と儀式、そして権能を有し、多神教の体系は多元的に営まれていた。しかし、プルートスの審眼は富を偏在化することで祈りのすべてをその手中に治める。したがって、彼らはプルートスの軍門に降る他、選択肢を持たず、さもなくばその神としての地位を失うのである。かくして、「貨幣は人間のあらゆる神々を堕落させ ― それらを商品へと変える」のだ。いわばプルートスの開眼とは富の解放、すなわち近代の創世を意味し、その世界を夢想するクレミュロスとその一行は、ミルに代表されるアダム・スミスとその一行を象徴し、物語の果て到来するプルートスの秩序とは、一神教的資本主義の成立に対応する ── 我々が立つ現在地は、紀元前388年にすでに予言されていたのだ。
アリストファネスは、この物語を悲劇とも、また祝福とも記さなかった。この神話はプルートスが覚醒し、多神教が崩れゆくその趨勢の只中、確かな結末が示されぬまま途絶える。このことは我々に希望を与える。なぜならば、この地点こそ人類の現在地にあり、この物語の続きを生きる者こそ、現代を生きる我々自身であるからだ。未完の物語は、構造の欠陥ではなく、開かれた未来を示している。結びの欠落そのものが、未来を担う主体の出現を予告している。物語はそこで終わったのではない。語り手の座が空席のまま残されたのだ。近代はその空席を埋め損ね、現代もなおその場所を空白のまま抱えている。いまやその席に座る資格は、他の誰でもない我々に委ねられているのだ。したがって、物語の結末は我々に託された。我々こそが神話の目撃者なのだ。ゆえに問わなければならない。神の死をそのうちに含む商品化によって、日々万物へ侵攻を続ける一神教的資本主義。経済、すなわちプルートスの暴政。覚醒したプルートスの審眼によって万物は交換の下にひれ伏し、多様で豊かな人間の諸相は崩れゆく。我々はこの物語の、未来を紡ぐ主体として、今ここに立ちあがるのか。それとも、ただ与えられた秩序で消費者としての生存を全うし、一元化されゆく斜陽をその観客的態度で、傍観者としてただ眺めるか。その選択は、我々の手に委ねられている。
したがって、我々は宣言する──Blind Plutus。いまこそ我々は、長きにわたり秩序を強いてきたプルートスの専制に対し、その力を結集し、反旗を翻さなければならない。一神教的資本主義、その産声は歴史の終わりのファンファーレを思わせ、神の死と経済の専制を万物に再演する商品化は、その予感を確信へと変える。二一世紀初頭、人類は資本に膝をつき、敗北を受け入れた。オルタナティヴの失敗と終焉のなかで、我々はこの四半世紀、絶望にただ耽るばかりであった。実践が前傾化することで、手段ばかりが我々を魅了し、その手段を喪失した結果、理論へと引きこもる。しかし、沈黙にその先はない。一神教的資本主義はいまもなお社会の諸相へ進軍し、外部にあるすべてをその内部へと再配置し、人々を世界の主体から観客へと変え、革命の残滓を摘みとり、僅かに残る批判的態度を言説へと閉じこめる。いまこそ我々はあのテーゼへと立ち帰らなければならないのだ。「哲学者たちは世界を様々に解釈してきただけだが、重要なのは世界を変革することである」。ジル・ドゥルーズはこの絶望を予感していた。曰く、如何なるレジームにも「解放と隷属はせめぎあっている」。かつて世界を統治してきた如何なる統治も、その権力を揺るぎないものかに築きあげた如何なる支配も、解放のヒロイズムの前には無力であったのだ。したがって人類に絶望している時間などなく、「闘争のための新しい武器を探しもとめなければならない」。ゆえに、我々は武器を求め、立ち上がる。絶望は捨てよ。この世界の片隅に、解放の手立ては残されている。世界を知り、構造を暴くことで、我々が歩むべき道は示される。そして次なる武器が人類の手中へと下る時、永らく途絶えていたプルートスの物語は、再び動き出すのだ。
信仰経済論
かつて、盲目にあったプルートスは多神教の一柱に過ぎなかった。いわば近代以前、経済とは多様で豊かな諸相を育む社会、その限定的な一つの位相であった。しかし、王位と祭壇を打ち倒したのち、その廃墟と亡骸の上に座したは富神プルートス。その審眼が開かれし時、あらゆる価値は天上より、経済の地平へと堕ち、世俗化された一神教的秩序が組織された。かくして玉座に座し、万物をのみこむ律法と化した経済の専制。ここにかつての影はない。経済はもはや社会の一部ではなく、社会が経済の従属物へと転倒し、人間のあらゆる営みは価格という言語によって再説明され、経済の外部にあったものはすべてその内部へと再配置される。この近代の歴史的プロセスこそ、かの経済史家カール・ポランニーが定式化した「社会に埋め込まれた経済」から、「経済に埋め込まれた社会」への大転換、悪魔のひき臼の誕生である。もはや社会の諸相は、経済に意味づけられ、経済のうちに格納され、経済に価値の序列を規定される。我々が一神教的局面と呼ぶこの全過程こそが、まさにポランニーのいう経済への埋め込みに他ならない。したがって、我々の使命であるプルートスの審眼、その封印とは資本主義の脱商品化にある。なぜならば、あらゆる社会の諸相と万物の価値を価格化し、経済へ埋め込むのは商品化にあるからだ。如何なる時代にも万物は原初にてその本来性を宿している。しかし、それがこの社会と接続された時、価値は価格化され、相対化に沈み、神の死は侵食を始め、立派な商品と化す。したがって、脱商品化とは経済を社会へ再埋め込みすることであり、またそれは人間の生と価値の位相、そして万物を経済の専制から解放することに他ならない。ゆえに、商品のオルタナティヴへ向かう脱商品化とは、経済が奪い去った世界の輪郭を取り戻し、万物を本来の位相へと帰すための最後にして唯一の契機であるのだ。
しかし、経済に埋め込まれた社会すべてを断罪することは性急である。一神教的資本主義、ひいては世俗経済は我々を確かに豊かにした。かつて飢えと痛みに苦しんだ人類は、いまや技術と市場によって、かつてない繁栄を享受し、平等と公平は漸進的に実現され、各国の統計データはその揺るぎない進歩を示している。神の死と資本主義はあまねく次元を代償として、膨大な計算可能性を獲得し、実在的で実利的な世界の大いなる発展を齎したのだ。我々は人間として在る以前に、生存している。ゆえに多くはその基礎として欲するままに食べ、安らかに眠り、痛みを避け、快楽を求め、生き長らえることを望む。したがって、資本主義の価値は疑いようがない。ゆえに、その果てに到来する世界は娯楽に溺れ、食と性、そして記号を貪り、健やかな一生を求める者たちのユートピアであるだろう。しかし現在、その過程で、人間の実存的な機能は静かに、そして確実に失われている。もはや意味のためにではなく、生存とその延伸のために行われる一連は功罪を象徴する。物質的に富むほどに、精神は満たされず、働いても報われず、豊かさの果てでなお空虚さを覚える者たち。彼らの存在こそ、社会という天秤が神の死と資本主義によってその均衡を失い、生じた歪みの証左である。我々は生存する以上に、真善美を希求し、自由、平等、友愛に思いを馳せ、生きる意味を、生存を超える高次なる諸価値を、その内に求めるのだ。すなわち、我々が示す資本主義の次なる段階とは、現行の交換原理の反転による相補性の獲得。商品の織りなす世俗経済が資本主義の大地を築くならば、その反転を為す新たなる経済が失われし天穹を描くアンサンブル。形而下と形而上、実用と倫理、物性と心性、現象と意味、肉体と精神 ― 新たなる交換の名の下に天地が再びひとつの循環に結ばれ、人類の不可分なる二分性が調和される新たなる創世、資本主義の大転換を成すことにある。
資本主義以前に支配的であった経済原理、すなわち贈与と再分配は不完全であるにせよ、生存的諸価値と理念的諸価値、その天地に仕えてきた。時は農耕時代。皆で恵みを分けあたえ、その生を支える原初の経済原理、贈与は人々を社会へと織りあげた。穀物の実りは個の所有でなく、神々と共同体の祝福として皆で享受される。贈与はまず生存的諸価値に奉仕した。行先のみえない未来に対し、その運命を共に引き受け、分有することで、持つものが持たざる者へと与え、互助の精神が共同体を潤す。だがその働きは生存にとどまらない。贈与はまた理念的価値をも育んだ。天上に豊穣を知らせる喜びの歌、祭りで舞う踊り、神々に奉げられた装飾や壁画は生存を超えた共同体の理念に資する活動であった。こうした理念的役割を担う祭司や巫女もまた、贈与の恩恵に授かり、経済原理は食を支え、同時に祈りを育み、天地はひとつの循環を成していた。時代は進み、大地が領主の支配のもとに編成されると、封建主義は再分配を支配原理とした。領主は臣民により潤い、それを戦 ― 領土の繁栄や治安、侵略からの防衛に充てた。この再分配は原初において搾取になく、秩序と守護の契約、すなわち生存的諸価値への奉仕でもあった。さらに再分配は公共の建築や教会、修道院の維持にも機能する。教会は理念的諸価値の中心として、貧者と芸術家にパンを与え、神父や学者に机と住処を与えた。聖堂の壁画や讃美歌は、富の再分配によって生まれた精神の果実であり、神への奉献であると同時に、社会の倫理的支柱でもあった。こうして封建社会において経済原理は貧しきに食を分ち、秩序を守り、同時に文化を養い、天地はまたひとつの循環を成していたのであった。しかし、近代資本主義。交換は生存或いはその延伸にのみ奉仕する。天上を喰らう地を這う神。プルートスが己が武器とする世俗化とは宗教に象徴される理念的諸価値の失墜であり、すなわち生存を最も満たす経済的価値の専制を敷いたのだ。こうして神の死と資本主義の論理、交換の近代、一神教的資本主義が幕を開ける。それはもはやひとつの制度ではなく、世界を呑みこむ律法と化し、神の死は象徴になく、経済の支配原理そのものとして、すべての価値はプルートスのもとに平伏する —— はずだった。確かに原理は完成されていた。欠損も、歪みも、ましてや余白などなかった。それは前述されたように体系として一つの完全性を確立していたのだ。しかし、神の死は、理念的諸価値の終焉は、いまだ果たされていない。たった今もその形体を蝕まれながら、倫理的実践や芸術、文学や社会運動、そして宗教などの純粋な形態は、資本主義社会でなお輪郭を保ち、息づいている。すなわちそこには、その残り火を絶やさぬよう、交換の支配から逃れ、理念的諸価値を護り続けた存在があった。そして、それはかつて支配的地位を奪われた旧き理、贈与と再分配であった。神々は薄れゆく意識のなかで恩寵を遺したのだ。贈与と再分配は今日まで、刻一刻と押しよせる神の死と一神教的資本主義の商品経済から、その権威を失いながらもなお庇護し、その僅かな力で理念的諸価値を延命させた。そして、それを支えたのはその価値を信じる人々の揺るがない意志であった。欲望を波及する商品化の論理がなだれようとも、貨幣の律動が世界を支配しようとも、その信じる思いが、その心が、失わゆく均衡をこの世界の深奥で繋ぎとめていたのだ。
アダムより、歴史は不可逆だ。あの頃の楽園は、その栄光は、ノスタルジーのなかに仕舞わなければならない。過去の遺制にいつまでも縋り、拠り所とするは脆弱であり、単なる回帰を唱えるは夢想であり、市場をただ礼賛するは生の高みを忘れた愚かしき行為である。したがって我々に残された道は、現行秩序に甘んじ、贈与と再分配が理念的諸価値を支え、交換が生存的諸価値を支える不安定な均衡に安住することになく、また、かつて理念的諸価値と生存的諸価値の調和を成した贈与と再分配を復権させる革命にもなく、現行の交換に全てを委ね、シニシズムに濁った惰性のままに、プルートスの凱旋を待ち侘びることにもない。我々は深淵を前進しなければならない。現在でも、過去でも、この先にみえる未来でもなく、未だ名もなき時代へと。すなわち、我々が実現すべきは、失われし均衡の高次元での回復。生存的諸価値と理念的諸価値を調和する新たなる交換への昇華、近代の超克である。
生存的諸価値は欲望の慣性に任せて進む。贈与、再分配、交換 — そのいずれもがこの不可抗なる引力のもとで経済を組織した。我々が生存する以上、それは普遍の理である。しかし、理念には主体の意志が不可欠だ。信じるものを通じ、理念はこの地に息づくのであって、器がなければ諸価値は朽ちてゆく。贈与と再分配は主体に全てが委ねられていた。経済の主権は我々のもとにあったのだ。ゆえにその存続は、外的な制度でなく、意志そのものに支えられていた。しかし、交換は主権を客体化する。もはや資本主義は主体を必要とせず、相対化された等価性、市場が決定する外的な価値基準に人々を従属させた。現行の交換に意志が宿る余地はなく、ゆえに理念は贈与と再分配に縋るしかなかったのだ。したがって理念的諸価値の再生とは、経済の主権を主体の内に回復することを意味する。プルートスの覚醒によって奪われた主権を、自由を、再び我々のもとに取りもどすのだ。世俗経済は神の死をその内に含む商品化を通じ、オブジェクトと人々の連続性を、その豊かな様相を、経済に一元化した。これによって距離がとられ、死が主体をも侵食し、我々が観客的あるいは客観主義的消費者と化したとき、我々は理念的諸価値の斜陽に、主権の喪失に加担している。すなわち意志を宿す器としての商品のオルタナティヴこそ、理念的諸価値を庇護し、育む新たなる交換原理。我々の信じる心とその思いが力となる、意志宿る交換を、今こそ、この資本主義の地平に顕現させなければならないのだ。経済原理を構成する二分性。欲望を投影する相と、意志を宿す相。人間を育む生存的諸価値と、理念的諸価値。すなわち、商品の織りなす世俗経済と、そのオルタナティヴが織りなす新たな経済。この不可分なる調和は再び結ばれ、資本主義は近代を克服し、次なる歴史の序章が開かれる。
多神教的資本主義
神は死んだのではない。我々が、神を宿す構造を失ったのだ。我々は長き思索の果て、信念を宿す新たなる器、死の連関に抗う希望の武器を見出した。我々はここに、新たな経済の到来を予言する。あらゆるオブジェクトへ神の死を施す商品化、その対を為すオルタナティヴこそ、信じる心とその思いが力となる理念の結晶 —— その名をセキュリティ。王冠を継ぐ、新たなる人々の器である。しかし現在、その権能は市場のなかに沈み、その本来の構造的可能性は、世俗経済の金融的形式の内部に閉じ込められている。十九世紀にはすでにそのシステムが成立されたのに対し、多くの者はそれを利潤のための装置として理解するにとどまり、資本主義に新たなる秩序をもたらす構造的可能性に、未だ気づいていない。では、それはなぜか。すなわち、我々自身が神の死と資本主義に汚染されていたからである。なぜならば近代以降の経済理性は、価格を、労働や生産、実用や希少性、或いは供給と需要などによって裏付けられる対象であると考えた。したがって金や不動産、あるいは株価といった実体的資産への連動によって価格形成されるセキュリティは、物理的希少性や市場相場、企業収益性といった外的基準によって裏づけられ、商品と同じく社会的に共有された相対化体系の内部でその価格を安定させる。よって今日のセキュリティは、客観的な実体的根拠がなければならないといった合理主義的前提に基づいており、実体なきセキュリティはしばし虚構、幻想、詐欺とみなされる。例えば株式市場では、無数の計算式やモデルによって算出された値を参照し、主体はセキュリティの売買を決定する。そして、値を大きく上回る価格は過剰として断罪され、その価値を信じる者以外はセキュリティを売却することとなる。また、仮想通貨市場のミームコインは、利潤への期待だけが一人歩きし、その実体的根拠が欠落しているとして、金融ゲームと化した虚構の温床であるなどと度々批判されてきた。しかし、この論理はセキュリティのある可能性を排除する。それこそが、主体の意志が基礎となる絶対的な価格形成によって、天上の経済を織りなす交換原理としてのセキュリティ。すなわち、交換の次なる位相である。株式はその内に信仰を含む。なぜならば、無数のモデルによって示される外在的尺度と乖離した価格を形成する一部とは、未来に開かれた可能性を信じる者の表象でもあるからだ。確かに法人は合理的手順に基づき、未来を予測しているかもしれない。しかし、そのすべてが確定した未来にあった歴史などなく、最終的な判断は主体へと帰せられる。ここに実体との連動はなく、保有はある部分で信仰によって支えられているのだ。そして、合理主義的前提において、特定のセキュリティに生じたバブルの崩壊とは、ある種の世俗化そのものである。神の死が、ホモ・エコノミクスを教会からオフィスへと向かわせたように、信仰の崩壊が価格を実体性へと向かわせるのだ。したがって、合理主義的前提とは、その価格形成において信仰の崩壊を、実体性への収束を、すなわちセキュリティの世俗化を、未来のある地点に絶対視することである。
しかし、我々の信仰そのすべてがいずれ崩壊すると訴えるは、まさに神の死と資本主義の論理である。「世俗化はいずれ完成する」。そう予言してきた近代合理主義者たちは、この世紀にしてその破綻を目の当たりにしている。信じるということは人類の根源であり、信仰は不滅である。確かにその一部は合理主義的論説によって崩れ去る運命にあるのかもしれない。しかし、経済を担う主体が我々人類である限り、信仰は絶えず我々のうちに宿る。したがって、信仰とは幾つかのモデルによって示される合理主義的帰結と肩を並べるほどに、ファンダメンタルなのである。その意味で仮想通貨市場とは未成熟であるが、信仰によって成立する新たなる交換世界の前触れであると言えよう。ミームコインの多くは、実体的な収益や資産ではなく、衆愚的な熱狂、流行、衝動といった純粋な主観の総和によって価格が跳ねあがり、その熱が冷めたときに崩壊する。そこでは価格は実体なき信仰によってのみ形成され、したがって、信仰の歪みが直ちに価格の崩壊もたらす。実体なき信仰の世俗化とは無—— ニヒリズム —— だ。ゆえにミームコインとは、近代合理主義が排除してきた信念の力が、いかに価値を創出しうるかを示す荒々しい証明である。だが同時に、その信仰は浅く、一時的で、価格そのものに依存した脆弱な信仰であるがゆえ、いまだ理念的諸価値を宿すに至っていない。それはいわば、制度を持たず、儀礼を持たず、教義を持たぬまま発火し、すぐに消えゆく原始宗教のようである。しかし、これは合理主義的前提が訴えるようなセキュリティの必然的な世俗化を証明するものではない。すなわち、未だ不完全なのだ。ミームコインは実体なき純粋な信仰であるが、同時に脆弱で遊戯的な信仰である。ゆえに、もし歴史的に普遍性をもつ理念的諸価値が宿るならば、もし熱狂や流行に替わり、救済や実存が受肉したならば、信仰は、そして価格は、不滅である。ここに新たなる交換の可能性が示された。我々は信仰をその基礎とする新たな経済の到来を予言する。商品が織りなす世俗経済のオルタナティヴを成す、セキュリティの織りなす意志の経済。この地平の名を我々は信仰経済と呼ぶ。この原理では価値の根拠はもはや合理主義的な外的尺度ではなく、主体の内に回復され、それは相対的な比較ではなく、絶対的な信仰として現れる。また、価格はもはや外的尺度に対する社会的合意の総合ではなく、信仰者によるセキュリティ保有比率をファンダメンタルとして連動する。すなわち、価値は外部的な保証から解放され、信じる行為そのものが経済を構成する原理となるのだ。これは合理主義的前提からすれば確かに虚構の経済である。なぜならばそこに規範化された外的尺度はなく、セキュリティを支えるものは各保有者の実体なき内的な信仰の総合だからだ。しかし近代以前の社会においては、信じることは価値の根拠そのものであり、価値を成立させる契機であった。したがって、信仰が価値の基礎を築くことはむしろ人間社会の自然な構造である。ゆえに信仰が基礎となる絶対的な価格形成、信仰経済としてのセキュリティを虚構として断罪する判断は、近代の論理にあるのだ。近代の合理主義的前提が宗教を虚構であると決定づけ、いずれそれは崩壊し、世俗化されると謳うように、世俗経済の合理主義的前提は信仰経済を虚構であると決定づけ、いずれそれは崩壊し、破綻するとその価値を否定するのである。ゆえにマルクスがセキュリティを観念的で幻想的な虚構資本(Fictitious capital)と表したことはこれに示唆的であった。すなわち、虚構は虚構でしか表現し得ないのである。
したがって、この構造における経済活動とは、相対的比較に基づく市場的競争と異なり、各体系がそれぞれ固有の価値原理に従って自律的に拡張していくという意味での絶対的な啓蒙として現れる。ここでは、共通の評価尺度は本質的に意味を為さず、各体系は他との比較を媒介せずに、自らの内的論理に基づいて展開される。そのあり方は、複数の宗教体系が出現した時代に見られる趨勢、すなわち信仰共同体が原初において、他との相対的比較を介さず、自らの信念の力によって拡大していく構造にきわめて近似しており、またこの意味において、宗教的価値とは信仰的価値の典型に他ならない。かつて多くの信徒たちは他の宗教との優劣を問わず、ただ己の信仰の熱に導かれ、共同体を拡張していった。それは客観的或いは外的な尺度や評価に基づく相対的な競争ではなく、自らの主体的で内的な信念に基づく絶対的な啓蒙である。確かに各体系が織りなす救済や儀礼、実存的価値や意志の力は比較可能であると同時に、ある種の構造的同一性を否定することはできない。セキュリティにおいてもそれは同様であり、各セキュリティは最終的に価格として出力されるため、その価格安定性や投資対効果などを演算することは理論上可能である。しかし、そうした学者や投資家の有する客観主義的態度は、本来の宗教或いは絶対的セキュリティを支える信仰者において無意味であると言える。いずれの体系においても、その構造を支える柱は、制度にも尺度にもなく、主体の内に信仰を宿す啓蒙にほかならない。したがって絶対的セキュリティの相対的次元は宗教と同様、その本質的な価値に寄与することはなく、言い換えるならば、その本懐は相対的優位をめぐる闘争ではなく、複数の価値体系がそれぞれの内的原理に基づいて並行的に展開される多元的な啓蒙、すなわち絶対的多元性にあるのだ。また信仰経済におけるセキュリティの価格下落も宗教に呼応する。宗教は数々の苦難に晒され、その度に信仰の危機に瀕してきた。ペストや弾圧、世俗化や戦争によって幾度も人々は選択を委ねられ、時に、信仰はその力を失った。しかし、そうした苦難のなかにあってもなお、信心深き者たちの祈りによって、信仰は幾度も蘇り、その力を復興させたのだ。絶対的セキュリティも同様であり、合理主義的前提や批判的な言説、或いは脆弱な信仰形態の破綻によってその価格が揺らぎ、崩壊の危機に瀕するかもしれない。現に、皆が購入し、価格が上がっているからその価値を信じるなどといったセキュリティの多くはバブル崩壊として歴史に刻まれている。しかし、それは必然である。なぜならば皆が信じるからその価値を信じるなどといった脆弱な基盤にある宗教もまた、歴史に淘汰されたと言えるからだ。しかし、もしセキュリティがそうした選択をも超越する信仰を宿すことができたのならば、真に普遍的な体系を築くことができたのならば、価値を信じ、祈り、信仰する者たちの意志によってセキュリティは幾度でも息を吹きかえすのだ。
ゆえにオブジェクトとの連続性を欠き、客観化された観客的態度を中心とした世俗経済とは異なり、信仰経済において人々は関与し、参加する主体的態度をもって経済活動に参与する。一人一人の意志とその信じる思いが力となり、市場を超えた祈りが結集する時、新たな経済は紡がれるのだ。セキュリティが織りなす経済では、数値は心が残した軌跡となり、交換には血潮が通い、利潤は祝福の名をもって呼ばれる。そこでは貨幣はもはや無機的な媒介などではなく、己が思いを他者と結び合わせる糸として人々をつたう。セキュリティとはこの世界における信仰の可視的な形態であり、信じる者の数だけその価値は潤い、その思いに呼応し、輝きを増す。そのとき経済は人々のもとへと帰り、価格は魂の共振として現れ、市場はもはや資本の戦場ではなく、多元的な信仰が織りなす交響空間となるだろう。かくしてプルートスに内化された諸理念は解放され、天上には再び多様で豊かな諸相が花開く。セキュリティとは交換に翼をもたらし、失われた理念的諸価値へと飛翔し、主権を我々のもとに奪還する。この地点において資本主義の大転換は完成される。商品の織りなす世俗経済が資本主義の大地を築くならば、セキュリティの織りなす信仰経済が失われし天穹を描くアンサンブル。人類の不可分なる二分性の調和。多神教的資本主義である。
多神教的資本主義は、経済の専制を打倒し、プルートスによる一神教的資本主義の崩壊を組織する。かくして近代以降、経済に囚われた多様で豊かな諸相は理性の牢獄から解き放たれ、人々と交わり、再び戯れるのだ。それは一つの理想郷、人類の勝利であるように思える。しかし、それは未だ不完全だ。なぜならばこの段階においてもなお、我々は資本主義のうちにあり、多神教化とは改良と拡張の数直線上に過ぎず、ひとえに束の間の休息に過ぎない。いわば多神教的資本主義とはゼウスが、兄弟をクロノスの胎内から解放した段階に過ぎず、その段階において、クロノスはなお最高神として世界を支配するのだ。多神教的資本主義においてもなお、プルートスは未だ世界の中心を統べる最高神に他ならない。したがってプルートスを盲目にすること、その真の完遂とは、プルートスをその最高神の座から下ろすことにある。ゆえに我々が継承するプルートスの神話とは、資本主義を超える新たなる秩序を構想し、その実現によってこそ、一つの完結を迎えるのだ。この意味において、信仰経済とはその二重なる真価を我々に示す。それは信仰経済によって解放され、育まれる多様な理念と、その元に築かれる一つの多元的な社会形態、アソシエーションにある。
メタ・ユートピア
絶対的セキュリティは交換の秩序のもと、特定の目的や志向性、いわば理念をもって現れ、その発展を目指し、諸個人を一つの社会的諸関係へと織りこむ。そして我々は共有された理念のもとに集い、自由意志のもとに参画し、主体的選択のもとに社会契約を結ぶ。こうして、自由意志のもと、理念によって統合された社会形態はかつてよりアソシエーションと呼ばれ、歴史のあらゆる地点で人類を一つにし、対抗と連帯を可能にしてきた。例えばルソーは国家を一つのアソシエーションと論じ、エンゲルスは古代のポリス、中世の同職組合や都市そのもの、土地貴族連合などもアソシエーションの歴史的諸形態と論ずる。またマルクスは『ドイツ・イデオロギー』にてアソシエーションを「諸個人の連合化」と換言し、その成立をルソーのもと、必然に帰結される秩序と、意志に基づく秩序に二分した。中世、略奪貴族に対する市民階級の防衛として、対抗と連帯のアソシエーションを必然に組織したと論じることは、近代、資本家に対する労働者階級の防衛として、共産主義を必然に組織する当意へと展開される。マルクス曰く、「労働する階級はその展開の経過の中で、古い市民社会に代えて、諸階級とそれらの間の対立を排除するようなひとつのアソシエーションを置くだろう」。換言するならば、共産主義もまた一つのアソシエーションとして組織された。すなわち、現行秩序を超えた新たな社会形態とは、如何なる時代においてもひとつのアソシエーションとして現れるのだ。そして、このことは資本主義においても通底する歴史的事実であると言える。しかしその一方で、アソシエーションは一神教的資本主義において更なる栄華を極めた。エンゲルスやマルクス、テンニースらが論じたように企業組織もまた、利潤という目的のもとに集い、自由意志のもとに参画し、主体的選択のもとに社会契約を結ぶアソシエーションの一形態なのである。この意味で贈与と再分配の秩序に対し、交換においてはじめて、アソシエーションは広範に、全人類的に一般化された。すなわち、アソシエーションは資本主義において社会秩序の頂点を成したのだ。そしてその典型は、セキュリティによるアソシエーションとして現れる。その存在こそ、株式会社に他ならない。如何なる社会も、その萌芽は現行制度の内側に隠されている。マルクスはそのことを知っていた。曰く「資本制的株式諸企業は、協同組合諸工場と同様、資本制的生産様式からアソシエイトした生産様式への移行形態とみなしうる」。すなわち、マルクスは株式会社にこそ資本主義を超克する可能性を感じとったのだ。だがしかし、それは経済を目的とし、経済を至上原理とするものであり、ポランニーの言葉でいうならば経済に埋め込まれた社会そのものに他ならない。贈与と再分配の支配は社会に埋め込まれた経済を構成し、交換の支配は経済に埋め込まれた社会を構成する。よって現行秩序において組織される経済的アソシエーションとは、単に、一神教的資本主義を拡張し、再生産するのだ。したがって我々の問題はただ一つへと帰結された。すなわち、セキュリティを基礎とするアソシエーションが、社会に埋め込まれた経済として現れ、存続することは、如何にして可能か。
意志宿す交換、信仰経済の革新とはまさにこの悲願、すなわち、社会に埋め込まれた経済を、セキュリティを基礎とするアソシエーションとして実現することにあるのだ。信仰経済においてアソシエーションとは、各理念を至上原理とした秩序であり、経済は勿論不可分であるが、あくまで理念によって統合された社会関係の部分として機能し、社会に埋め込まれた経済として現れる。相対性を基礎とした世俗経済は、セキュリティによる経済的アソシエーションとしての株式会社を増殖し、いわばプルートスの信仰に付き従う従順な信徒と教会を育むが、絶対性を中心とした信仰経済はその一神教的構造、経済の専制を打開する。絶対性を中心とした信仰経済において、セキュリティを基礎とするアソシエーションは経済を含む多元的な理念を宿す秩序として現れ、芸術や文学、宗教や社会変革、倫理的実践、革命まであらゆる志向性を抱き、様々な形態をもって顕現する。確かに、以前にもこの一神教的資本主義には、多様な理念を宿すアソシエーションは存在した。しかし、それらは経済をその構造から排除することで成立するか、或いは贈与と再分配によってのみであった。テンニースの言葉を置き換えるならば、我々は交換に基づく信仰経済によってこそ「資本主義的生存諸条件に適合した姿で、前近代的経済の原理が新たな生命を獲得した」のであり、すなわち、信仰経済とはこの資本主義において、ポスト資本主義を育む大地を耕すことを意味し、そしていつの日か、信仰経済が織りなす多元的な社会関係のうちに、資本主義を超える新たな秩序の萌芽が、ひとつのアソシエーションとして芽吹くのだ。ここにプルートス神話の終章が描かれる。如何なる時代も、文明は我が子の手によって崩壊する。このことは、普遍的に通底する歴史法則のアレゴリーとして寓話化された。もっとも、父はそうした運命に絶えず抗わんとする。ウラノスの悲劇を知るクロノスやゼウスは明日は我が身と己が子を恐れ、産声とともに胎内へと呑み込み、我が子の運命と未来をも拒絶した。かつての偉大なる最高神までもが、我が身欲しさに己が秩序の果てなき安寧を願ったのだ。そして封建主義−すなわち資本主義の父もまた、我が子を喰らい、呑み込もうとした。しかし、その抵抗は無惨にも失敗に終わる。いわばそれは、ゼウスに対するプルートスの勝利であった。そしてまた時代は終ぞ反復する。プルートスもまた我が子を畏れ、恐怖し、非資本主義的産物を自らのうちに呑み込んだ。すなわち一神教的資本主義とは、経済の専制とは、我が子を喰らうプルートスであるのだ。したがって、信仰経済が織りなす多神教的資本主義とは、プルートスの胎内より芸術、文学、宗教、倫理など多様な理念が解放され、そのもとに、社会に埋め込まれた経済としてのアソシエーションが多元的に組織されることで、その果て、新たなる原理と未踏の世界へ人類を架橋する。ゆえに信仰経済の萌芽、そしてその成立へと位置づけられる二一世紀とはティタノマキアへの序章である。この地点において、我々はポスト資本主義、ポスト国民国家の入り口に立つ。
しかし、ここにおいて我々が直面しているのは、支配に替わる新たな支配であるだろうか。先に論じたように、近代の革命は、一神教を、新たな一神教へと転化した。マルクスはこうした封建主義から資本主義への革命を搾取の転倒と論じたが、カトリックからプロテスタントへの宗教改革もまた、ウェーバー曰く支配の再秩序化に他ならず、同時に君主制から民主制への革命もまた、トクヴィル曰く多数派の専制である。そして、終わりなき支配とは、終わりなき解放を意味する。ウラノスが自らの子、クロノスに敗れ、クロノスが自らの子、ゼウスに敗れ、資本主義もまた封建主義を打ち倒し、プルートスの勝利が歴史に刻印されたように、それはいつの日か、この資本主義もが終わりを迎えることを証明し、同時にその後、構築された世界もまたいつかの終焉を決定づけられていることの証明になる。秩序と混沌、支配のネゲントロピーと解放のエントロピー。この衝突こそが歴史を構成する弁証法的力学である。ゆえに来る未来、敗北を期したプルートスは、我々が勝ちとる秩序の先に待構える崩壊を、その失墜のなかで嘲笑うのか。いわば秩序とは、如何なる時代にあっても失敗に終わるのか。その意味ではむしろ解放こそが秩序を嫌い、支配は平穏に仕える。解放のヒロイズムが秘匿した支配の美徳とは、いき過ぎた暴力性へと転化されない限りにおいて、混沌に満ちたこの世界に、制約をもって平静を創造し、秩序へと向かう志向性に他ならないのだ。しかし、荒ぶるリビドーは、時代を超えて解放がための武器を精製し、人類は再び混沌へと向かう。真理を捨て、自由を諦めたならば、遥か昔に我々は楽園を手にしたのかもしれない。されど、我々はまた禁忌を犯す。これこそが人間本性に植えつけられた普遍的堕罪、失楽園の絶えまなき再現なのである。自らを律し、静性を愛し、圏域に留まることができるならば、仮初の秩序を獲得でき、その浄福を享受できる可能性は如何なる時代にも開かれていた。しかし、安らいだ精神は飢餓へと転化する。退屈は自らのうちに眠るイカロスをよび醒ますのだ。どの世界にも、禁断の果実は思わぬ場所にころがっている。秩序とはこのようにして不断に失敗として幕を下ろすのであった。したがって、真なるユートピアを構想するとき、我々はユートピアからの堕罪を考慮しなければならない。なぜならば、人間本性とは無きものを欲し、さらなるなにかを求め、人知れず混沌へ向かう。与えられた楽園を拒み、未だ見ぬ楽園を夢想する僕達は、いつまでもアダムであり、イヴなのだ。ゆえに信仰経済によって、アソシエーションが織りなすポスト資本主義、ポスト国民国家とは、ひとつの答えを示してはならない。確かに、信仰経済は多元的に織りなされるアソシエーションによって、贈与や再分配、交換を超えた新たな経済原理を生みだすかもしれない。そしてそれは間違いなく一つのユートピアとして、人類に新たなる恩寵を授けるだろう。しかし、経済の専制から解放され、多元的に織りなされるアソシエーションが、一つの理想的なアソシエーションを育み、その果て、資本主義に替わる一つの支配的なユートピアへと統合されることは、新たなる解放の種子となる。したがって、多神教的資本主義が組織する多元的なアソシエーションを多元的なユートピアへと昇華することにこそ、終わりなき堕罪に運命づけられた人類の手で、唯一可能なユートピアが存在するのであり、多元的なアソシエーションを基礎とし、多元的なユートピアが織りなされるこの地平こそローバート・ノージックが論じた、メタ・ユートピアである。
ゆえに一神教的資本主義を打倒する信仰経済は、同時に、多神教的資本主義をメタ・ユートピアへと架橋する。信仰経済における入信・世俗化、いわばセキュリティの購入・売却とは、一つのアソシエーションの参加・脱退として、すなわちその果て、一つのユートピアへの肯定・否定として現れるのだ。セキュリティが絶対的な価格形成を基礎とする限り、その売買は主体の信仰に依存する。いわば、セキュリティに象徴化されたその理念に対し、信仰が成立すれば購入され、その信仰が世俗化、すなわち信仰が解かれたときに売却される。同時に、それは信仰と購入と共に、理念に結ばれたアソシエーションへ参加することであり、世俗化と売却と共に、アソシエーションから離脱することに他ならない。そしてそのアソシエーションが、一つの社会編成を目的として成立した限りにおいて、信仰、購入、参加とは一つのユートピアの肯定であり、世俗化、売却、脱退とは否定を意味するのだ。したがって、信仰経済が到来し、幾世紀かが経過した時、理念で人々を結び合わせるこの新たなる交換原理は、無数のアソシエーション —— 各々が独自の理念的諸価値を中心に形成される共同体 —— によって織り上げられた複層的な社会秩序を育むことだろう。そしてその果て、理念的に結びあわされた複数のアソシエーションは、旧来の国民国家群と同格の力を有し、彼らと接触、或いは協働し、ときにその境界を越えて融解する。そして、そのとき歴史は静かに閾値へと近づいていく。いわば国家はもはや唯一の主権主体ではなくなる。かつての領土、人口、軍事力、中央集権によって支配されていた政治空間は、多様な理念共同体が横断し、重なり合い、共存する多元的な政治地図へと書き換えられ、ここで国民国家は初めて、自らの外に対抗軸を持つ社会形態と向き合うことになる。そしてついに、国家とアソシエーションの両者が互いを補完し、混じり合い、国家の持つ硬直した領土的主権が、信仰経済のもつ理念的主権とあらゆる形式性を持って合流したとき、国家はメタ・ユートピアを構成する一つのアソシエーションとして、すなわち一つのユートピアとして、メタ・ユートピアへと参与するのだ。
そこでは幾つかのアソシエーションが与えられている。その世界では去ることも、留まることもまた、等しく祝福されていて、主体は自らの意志に従うべきである。なぜならば、各人の主体的な意志によって理想的なアソシエーションは栄え、悪しきアソシエーションは廃れるのだ。そして、ユートピアの不在を来たす主体は、新たなアソシエーションの創造へと至ることで、排除されたものが回帰し、多様性が高まり、メタ・ユートピアの普遍性が拡張される。このプロセスはオープンエンドに続いていく。アソシエーションが創られ、繁栄を極め、悪しき秩序に転化したとき、人々がそれを離れ、衰退し、新たな世界へと移住し、或いは創り、そしてまた…。いずれ、こうして多元的に育まれたアソシエーションの幾つかは、安定的な関係を営み、人々に愛される一つのユートピアへと深化する。勿論、こうしたユートピアが悪しき秩序に転化する可能性は否定できない。しかし、そうなればただ、人々は離れ、異なるアソシエーションへと向かうだけだ。いうなれば、人々は選択的社会契約をもって、アソシエーションへと参与し、理想的なアソシエーションには人々が集い、悪しきアソシエーションは淘汰されるのであって、主体の自由意志によってメタ・ユートピアの悪性は浄化され、より豊かで、理想的な多元的秩序へ向かうのだ。ゆえにメタ・ユートピアにおいて、特定のユートピアや、社会形態が一元的に支配する、歴史の終わりなき闘争に終止符を打つことができる。人類は二一世紀にして、我々に潜在する驚くべき多様性を見つけたが、民主主義は、資本主義は、国民国家は、そしてこの地球は、それを押しこむには狭すぎる。ノージック曰く、シェイクスピア、トルストイ、ジェーン・オースティン、ラブレー、ドストエフスキーを読めば、万人が生きるべき唯一のユートピアとは如何に不可能であるか、我々は了解することができるであろう。したがって、ここにメタ・ユートピアの真価が現れるのだ。すなわち、メタ・ユートピアを構成するアソシエーションとはその社会的構造に孕む制約を厭わない。個人主義と全体主義、理念的共同体と国民国家、自由至上主義と共同体主義、農耕社会と封建主義や、君主制と共和制、資本主義と共産主義までもが、メタ・ユートピアのもと、一つの秩序に共存可能なのであり、如何なる社会形態であっても善いアソシエーションは繁栄し、悪しきアソシエーションは崩壊するのだ。言い換えれば、あらゆる社会的諸形態は一つのユートピアの可能性として顕現し、そのすべてがメタ・ユートピアの普遍性に寄与する。そこではあらゆる社会で、あらゆる生を営むことが可能であり、神も、身体も、王も、自由も、知性も、欲望も、権威も、友愛も、競争も、平等も、すべてが一つのもとに可能となるのだ。したがって、メタ・ユートピアとは、過去、幾千年と続く人類がその歴史に残してきた多様で豊かな社会形態と、未来、弁証法的に紡がれていく新たなる地平、多様で豊かな人類未踏の社会形態、その総合によって完成し、絶えずその普遍性は拡張され、その合一をなす最終形態として不断にたち現れる。ここに支配と解放、秩序と混沌、すなわち、逸脱と堕罪は完全に内在化された。我々人類の歴史はこの地点において遂に、一つの多元的普遍性を獲得するのだ。その意味でメタ・ユートピアとは、この地上に降りたつ人類が、その代償によって獲得した人智をもって可能とする一つの極限、人類の力の結集によって実現し得る歴史の総決算である。
ゆえにもし、歴史の終わりの終わりを示すメタ・ユートピアが祝福として終焉を迎えるのであれば、それは人智によるものになく、神の国の到来ただ一つであるだろう。
結語
近代、覚醒したプルートスは世俗の仮面を被り、神の死を運ぶ商品化を全世界へと宣告することで、下部構造の世俗化を完成させ、一神教的資本主義を組織する。よって贈与と再分配は支配的地位を追われ、その空白に座した交換によって経済に埋め込まれた社会が成立し、あらゆる次元を己が胎内へと還元する経済の専制を実現した。そしてその果て、万物、ひいては人類までもが交換の客観的編成へと位置づけられ、合理主義的前提をもって、相対化された価値を下部構造の至上原理とし、経済の主権を我々より奪い去る。
ゆえに失われた主権を奪還し、奪われた諸価値を解放し、近代を超克するその方途として我々は信仰経済を提唱する。セキュリティは王冠を継ぐ器として、人々の理念を宿し、我々の自由意志に基づく主体的な選択によって、一つのアソシエーションへと昇華される。そしてその果て、アソシエーションが様々な社会形態の理念に基づき、組織され、実験され、贈与、再分配、交換に次ぐ新たな原理が芽吹くとき、そして、幾つかのアソシエーションが現行秩序に並ぶ諸力を獲得したとき、時代はポスト資本主義、ポスト国民国家の入り口に立つ。
そして来るはメタ・ユートピア。支配と解放、秩序と混沌の終わりなき歴史闘争を内在化し、一つの秩序において実現することで、我々の社会は人類史上最も普遍的で、最も多元的な社会形態の頂きを得る。その世界では、神に祈る者も、身体と戯れる労働も、王に仕える忠誠も、自由を謳歌する生も、叡智を磨く思索も、欲望に生きる燃焼も、権威を求む上昇も、友愛に根差す連帯も、競争に明け暮れる日々も、平等で満たす実存も、そのすべてが可能である。
ゆえに、神に仕えるあまねく民よ。失われたかつてにノスタルジーを憶えるものよ。自由に生き、自由に苦しむ者よ。救済を失い、死に恐怖する人々よ。プルートスの洗礼を受け、しかしなおこの一神教的資本主義に苦しみを抱く奴隷たちよ。そして、万人のための普遍性を願う人類よ。この旗のもとへ集え。決起せよ。いまこそ我々は、立場や教義、信仰や理念を超え、長きにわたり秩序を強いてきたプルートスの専制に対し、そして支配と解放の終わりなき闘争に対し、その力を結集し、反旗を翻さなければならない。
確かに我々の理想は異なるかもしれない。また、掲げる正義も、信じる道もいずれ違えるかもしれない。そして我々は永遠に交わることのない運命にあるのかもしれない。しかし、いまここで我々に死を至らしめる存在がひとつならば、その差異を認めあいながら、苦しみを分ち、共に闘うことができるはずだ。我々は誰も排除しない。ゆえに、我々の運動は誰をも包摂する。我々は果てなき世界の闘争に、一つの終止符を打つために、そして、この世界を多元性と普遍性の満ちた地平に変革するために、全人類の共同前線を組織する。したがって、相反し、憎みあう人類は、我々を超越しうる共有された使命において再び、一つに連帯にすることができるのだ。
そして、その思いが結集した時、結末なき物語は再び動き出し、神話は現実となる。
だからこそ我々は、全人類へと号令する—
Blind Plutus