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Manifest

2024.6.3

Libertinage Universalism Symbol
lll
秘奥の薔薇

I can but trust that good shall fall

At last ― far off ― at last, to all,

And every winter change to spring.

Alfred, Lord Tennyson, IN MEMORIAM A. H. H

人類史を通して社会構造は複雑に畝り、多層化し、樹立と崩壊を重ね、現代に至る。各時代で政治家、学者、思想家、芸術家など多様な人々が各々善い社会を切望し議論し闘争してきた。そして20世紀、皮肉なことに戦争の不可避性によってはじめて、人類はグローバルな議論のテーブルにつくこととなる。1991年12月26日、歴史は終わった。自由民主主義が幾千年の悲願を達成したかのように思われた。経済成長率、コロナ、戦争、ポピュリズムの渦巻く2024年現在、牙城は完全に崩されたといえよう。21世紀が到来し、時と事を経る毎にそれは確固たるものとなる。今日、その綻びのもとにオルタナティヴとなる新たな社会思想が続々と出現し、新時代の芽吹きが特定コミュニティを超え波及し始めている。加速主義はその最たる例であり、それは単なる哲学的範疇を凌いで様々なセクトへ分派するまでに展開されている。そうした次代への熱狂は大変素晴らしいものであると同時に、差し迫った危機がひどく基本的なものを覆尽くしてしまったと我々は考える。

みな次の社会を創造することのために、メカニズム、制度、方途の効率化、に躍起になり自らに立ち還って問うことを忘れている。「ユートピアから科学へ」といった実装の前景化が現代思想を徘徊している。始点なき志向性がどこからともなくやってきて、脱文脈化された現在との対比で改良主義的に滑り落ちていく。これはガート・ビースタが提唱したエビデンス・ベースト・エデュケーションへの批判に通ずる。

そこでは、何を「効果的」とするのかは何が教育的に望ましいのかということに決定的に依存しているということが忘れられている。実践の側では、エビデンスに基づく教育は教育に参加するものが、自分自身の文脈化された舞台に敏感なかたちで、あるいは意味あるかたちで、そのような判断を行う機会というものを著しく制限してしまっている。「何が有効か」への焦点化は、何に対して有効なのか、その有効先を決めるときに誰が言い分をもつべきなのか、ということを問わなければ、困難をきたす。(...)こういうわけで、教育はその核心において、技術的な企てというよりも道徳的な実践なのである(Biesta 2007)。

ビースタは「エビデンスに基づく教育」が自己目的化し、対象の教育が依存する原点について盲目的であるとして、それを問い遡行することの重要性を唱えた。社会を創造することは「その核心において、技術的な企てというよりも道徳的な実践なのである」。緊迫した現代だからこそ我々は自明の原理だとする立脚点に懐疑を以て相対さなければならない。なぜ自由であるべきか、なぜ幸福であらねばならないのか、なぜ人類が繁栄すべきなのか、なぜ善い社会を目指すべきか、善いとはなんたるか。そうした根幹を成す問題を括弧に入れて、いたずらに先を急ごうとする進歩主義の軛を解かねばならないのだ。デカルト曰く「すべての事物において、最高度に絶対的なものを、注意深く観取するところにこそ、全方法の秘密が存する」(Descartes 1627)。我々に内在する圏域を絶えず遡行することによって、いまこそ実践における「第一原理」を獲得せねばならない。その末に、在るべき未来が開かれるのだ。

§

如何なる時代にあろうと人間は始終、善いこと、善いひと、善い社会であることを求め志し、他方悪を憎み、蔑み、罰してきた。こうした自明的な原理の数々を、異端文学者アルフォンス・フランソワ・ド・サドはいとも簡単につき崩す。「人間が美徳を行うのは、そこから何らかの利益を引出すため、あるいは何らかの感謝を期待するためにすぎない(...)性来の美徳(...)を実行する奴らだって、要するに自分のいちばん気に入る感情に自分の心を委ねているという以外には、別に何の価値あることをしているわけでもないのだから、やっぱり他人と同様エゴイストであることに変わりはないのだ」(Sade 1800) 。サドの毒はよく廻る。モラリストであるほど通念的な良心を蝕み、神秘主義者であるほど無味乾燥な肉体を自覚させる。それはキリスト教的伝統の下支えのもと、強健に聳え立つ道徳哲学を中心から鋳溶かす酸なのであり、その効果は未だなお有効である。―アポリネールが「いまだかつて存在したことのない最も自由な精神」(Apollinaire 1909)と評したように―サドはその生涯の著作を通し、如何なる自由主義者よりも遙かに絶対的な自由を謳った。それも極めて理知的で世俗的な論理のもとに、万人が「自由と権利の全面的な所有者」(Sade 1795)であると結論づけるのだ。また、それは―続く諸節で詳細に検討することとなる「リベルティナージュ(libertinage)」という、サドが完成させた数世紀にも渡る伝統の極致としての―ある特殊な「還元(reduction)」による帰結であった。「還元」という操作についてはラプジャードのテクストを借りたい。

還元全般の重要性は、あらたな存在物の知覚を可能にする平面を創建する点にある。還元は(...)まなざしの転換をおこなうことである。(...)こうした知覚の刷新にとって障壁となるあらゆる前提、偏見、錯覚を、平面の外に追いやろうとする第一の契機がこうして生まれてくる。還元とはまず掃除という操作なのだ。見ることを妨げるものすべてを取り除き、経験野を純化させねばならない。(...)第一にプラトンは、外観に囚われているほかの人びとには見えないもの―本質の世界―を見るために、必要な転換をおこなう人物たちを描きだした。取り除かなければならないのは、感性的な外観という変わりやすい現実であり、それがイデア界の観照を妨げる障壁になるというのだ。(...)イデアが純粋形相なのは、あらゆる他性、あらゆる劣化を免れている。(...)デカルトにおける懐疑の操作は、「われ思う」の純粋な内面性の外にあるものすべてを、経験野から取り除いて純化することを可能にする。プラトンとはちがって、あらゆる他性を取り除いた純粋な同一性形式ではなく、悪意をもって侵入してこようとする外的要素すべてを取り除いた純粋な内面性形式を探し求めているのだ。同じことは現象学的還元にもいえるだろう。いったん自然主義的な前提を取り除いたうえで、「純粋内面性の心理学」としての超越論的自我論を構成しようとするのだ。ここで同じく重要なのは、こうでもしなければ見えないままであり続けるもの―生きられた経験の本質の本源的世界―を見させるための平面を描きだすことである(Lapoujade 2017)。

フッサールが現象学的還元の先に生世界をみたように、サドはリベルティナージュ的還元の先に〈絶対的自由(libertéa bsolu)〉をみたのだ。彼がそのもとに描く一見反道徳的で享楽主義的な「本源的世界」は、近代教育をうけてきた我々に―その独善的な響きから―若干の後退りをさせる。我々は生を原点に、あらゆる道徳観を秤にかけたうえで、この〈絶対的自由〉こそが真に道徳的であるとして、サドが完成させたリベルティナージュの再興を試みたい。「でも、そんな道徳を採用していた日にゃ(...)あんまり東縛がなさすぎて、何だか怖いような気がしますけど」(Sade 1800)。〈絶対的自由〉の語彙から無秩序性を彷彿とした者は、上記のようなジュリエットの考えと立場を同じくするだろう。しかし、近代を震撼させた禁書の数々に記されたそれは、粗野で低俗な病理学的言説と一線を画する。ゆえにサドは云う。「わたしは犯罪者でもなければ人殺しでもなく、一介のリベルタンにすぎない」(Sade 1781)。そこで第一に我々は、人類すべての根源たる「生」を暴くことで、サドが謳うリベルティナージュの恒久性を示すと共に、次代の在り方を提起したい。覆いかくされた生の不条理が顕になることは、人類を欺き支配するあらゆる言説の詭弁を裁く審級を為し、二十一世紀に立脚すべき第一原理〈絶対的自由〉への帰結へと我々を誘うだろう。かのフィリップ・ソレルスは、それを予見するかのようにサドの現代性を訴える。「一八世紀の自由の高潮はサドを生み出した。一九世紀はサドを黙殺することに、あるいはサドを検閲することに専念した。二十世紀はサドを論証することを自ら引き受けた、どぎついやり方で、否定をとおして。二一世紀は必ずやサドをその名証性において考察することになるだろう」、と(Sollers 1996)。

§

 誰だって悲惨だ。誰だって虚ろだ。生ほど不条理なものはない。生まれたくて生まれた訳じゃない。我々は望まぬ生を不可抗に賜った。才覚に恵まれ、経済的に富み、有り余る幸せを享受した者でさえ生の起源に例外はない。こうして求めずして途端に始まった生には、不可逆性という宿命が科されている。生は恣意的に始まったにもかかわらず終わるには苦しみが伴う。無から生まれたはずなのに、その故郷へ帰化することに恐怖を憶える。敢えて盲目になり刹那的に生を演じることのできる者以外は、「生きている、生きるが故に。死ぬ、何ものでないが故に。なぜに心ならずもあたえられた光明を失わねばならぬのか、それが失われた後に、何を悔やむことができるのか。存在しなかったとき、わたしは不幸だったのか」(Cyrano 1654)などと非存在を想起し、反出生主義への思弁を募らせることを理性に強いられるだろう。ここで更に悲劇的なことは反出生主義の成就が不可能性のさなかにあることだ。それは反出生主義ゆえに一世代で潰え、淘汰され、時に闇に葬られることにある。現代に反出生主義的潮流をまきおこしたデイヴィッド・ベネターでさえ次のように嘆く。「存在してしまうことは常に害悪であるという見解はほとんどの人の直感に反する。(...)人類絶滅は害悪の総量を大いに減少させるだろうが、人類は自分から絶滅はしないだろう。残った感覚のある存在者は苦しみ続け、感覚のある存在者が存在してしまうことは以前として害悪のままで変わらない。(...)存在してしまうことは常に害悪であるという結論を、多くの人が喜んで受け入れてくれることはないだろう。多くの人が子どもを持つのを止めることも全然ありそうにない」(Benatar 2006)。こうして我々は生物学的な直感だとか淘汰だとかの理に支配されていることを再認識するのだ。また我々は誰しも生を授かったときは無意味であるはずなのに、奇しくも子供を産むことには意味を見いだせてしまうことも非常に残酷である。生とはこの意味で内からは止められない不可逆な連鎖を運命づけられている。そのために我々がすべきは、親とそのまた親といった果てしなき怨嗟を吐くことにもない。我々に同じく、悲劇的に生をうけた彼らが抱く「子どもを産む意義」やその自由を毀損する権利など、どこにあろうか。不条理に生が始まると同時に不可逆性を背負わされた我々を、さらに虐げ抑圧する道徳など道徳的であるといえるのだろうか。

人間というものは、それ自身もともと不幸なもの(...)だとするならば、同胞に対して少しは寛大に扱ってやってもよいのではないでしょうか?そうでなくてもいろんな重荷を負っているのに、さらにその上に、ほとんど無益で、滑稽な、自然に反する軛を負わさなくても、よかりそうなものではありませんか?(Sade 1793)

 われわれは摂理に蹂躙されてもなお必要以上に強く道徳的であろうとし続ける愚かな人間にカント主義の解毒剤を渡したい。アルベール・カミュは「人生の意義(...)においては、精緻な学識にもとづく教壇的弁証法は、良識と共感との両者から発するより謙譲な精神の態度に席をゆずらねばならぬことがわかる」(Camus 1942)としたが、この一説こそ道徳性を追い求めた反出生主義の失敗を象徴しているだろう。反出生主義の祖であるショーペンハウアー自身が「ご馳走をいっぱいならべた食卓につきながら自殺を讃美していた」ように、「人生を拒否するにいたるほどまでに自己の論理をつらぬ」けなかったのがなによりもの証明である 。重要なのは―サディアス・メッツがベネターを批判したように―直感的に「到着したくない場所へ私たちを連れてゆく論証の列車から、適切な理由でもって降りることができるのはどの地点か」(Metz 2011)を如何に見極めるかである。そこで、我々が提起するのは不条理に始まったこの世界を、万人が人生を謳歌し、如何なる自由をも解放できる―と同時に秩序だった―世界につくりかえることであり、この手段こそ全人類を救済する唯一の手段に思える。悲劇的な枷とともに生まれてきた人類には、せめてもの救いとして最大限自由に自らが望む生をおくる権利があるはずなのだ。即ち、もうこれ以上なにものも奪うべきではない。『閨房哲学』からつぎはぐならば、「人間というものは、ただ自然の不可抗的な計画によって、この世に生まれてきたものにすぎず、(...)地球の存在によって必然的に生じた単なる一つの産物にすぎない」。それゆえ「人間としてこの悲惨な世界に自分の意志とはかかわりなく投げ込まれた不幸な人間が、茨の人生のうえに薔薇の花を咲かせるためには」 (Sade 1795)。こうした生の残酷なるプレリュードがあってはじめて、〈絶対的自由〉という原理が時を越えて再び顕現する。逆説的に人類が原初に不条理なる生を賜ったことは、せめてそれを満足にまっとうできる世界の創造が幾世紀も前から要請されていたことを意味するのだ。冒頭の問いのすべては答えられそうにないが、少なくとも我々は自由な社会にむかう道理があると断言したい。それは悲劇的な生へのせめてもの報いとしてである。〈絶対的自由〉とはこの意味で憐れな生からさらに自由を剥奪し、抑圧をかけようとする伝統的道徳主義者より、よっぽど道徳的であるといえるだろう。

§

 我々人類は皆酷く残酷な生の原理から始まるゆえ、せめてもの救済として自らが望む生を謳歌する自由がある。そしてそれを毀損する権利など、本来誰ももちあわせてはいない。この論理の道徳的基礎づけとなる〈絶対的自由〉は、リベルティナージュ的還元を完成させたことで、アルフォンス・フランソワ・ド・サドが至ったフランス近世思想の極致である。ではリベルティナージュはいつに始まり、如何なる変遷のもとにサドのもとへ漂着したのか。そしてその果、彼は非情なるこの世界になにをみたのか。時は十七世紀に遡る。それは、空席となった近世思想の玉座を占拠すべく―前王カトリックの復権を志す者或いはそれに反旗を翻したプロテスタントのみならず、イタリア自然主義者、エピクロス主義者、懐疑論者、汎神論者、理神論者、無神論者などの―数多の思想が駆け巡る動乱の時代。豪華絢爛たる太陽王黄金期が迫るにつれて、日々高まる言論統制へ迎合した様を装いながらも、華々しきヴェールの裏で衆目を避けて集い、反教義的理論を深化させる者たちがいた。彼らが有する医師、碩学、弁護士、東洋学者、司教、大使、領主、司法官といった千差万別なコンテクストが織りなすシンフォニーは、来たる世俗化と啓蒙主義の播種となる批判精神を涵養する。かくして、時代と社会の支配的通念や規範、権威にとらわれずに、文献的博識に立脚した多彩でラディカルな批判精神を以て、キリスト教のオルタナティヴを構想する知的文化こそ「学識的リベルティナージュ(Libertinage érudit)」である(Pintard 1943)。一六世紀的な敵対的で不寛容な宗教的内戦とは対照的に、学識的リベルタンが偽りの遵法精神を公衆に示すのは、―リヴァイアサンによる消極的効力ではなく―毅然とした理念に基づくものである。学識的批判精神は対象の真偽に留まらず、その有用性を検討の範疇に組み込むことで、宗教の齎す政治的な安泰と平穏を訴えた。その理論的支柱は―ガブリエル・ノーデやギー・パタンといった学識的リベルティナージュの主導者に多大なる影響を与えた―『七賢人の対話』であり、本書は宗教の政治的有用性に留まらず、ナントの勅令―信仰の自由―を絶対的なものへ昇華せんと試みる学識的リベルティナージュの記念碑的書物である。『七賢人の対話』では各信仰体系を代表するカトリック、ルター派、カルヴァン主義者、ユダヤ教徒、イスラム教徒、理神論者、そして無関心派の七賢者が一堂に会す。彼らが展開する多岐に渡る議論を通じて幕引きに宿る、政治的迎合主義に立脚する宗教的寛容或いは相対主義は、社会秩序が為に衆目を避けて自由な論議を営む、学識的リベルティナージュの倫理そのものであった。フランソワ・ガラースは前掲したような、政治的迎合主義に立脚する宗教的寛容或いは相対主義者たるリベルタンの肖像を、以下のように叙述する。

「イスラム教徒もいれば、異教徒もいれば、キリスト教徒もいて、異端者もいる」、だからどうだと言うのだ。それぞれが自分の国の宗教に従うことだ。宗教は人民を服従させておくためだけの政治的でっち上げでしかないのだから。(...)人間の大多数を構成するのは愚か者だが、リベルタンは「卓越し、並の人間を越えた精神の持ち主」である。この強き精神(esprit fort)の持ち主たちは、信仰の絶対的自由、全面的な自立を要求する。「人間精神は生まれつき自由で、束縛をまぬがれている」と彼らは主張する(Minois 1998)。

 学識的リベルティナージュは、信仰の〈絶対的自由〉に基づいて、長きに渡り封印された数多の思想を再び光(Lumières)のもとへ導き、その豊穣なる地に新たな命を吹き込み、さらなる高みへと耕した。こうしてルネサンスは啓蒙へと架橋され、新時代の萌芽は近代を準備する。然れど、それはなにも喜ばしきことではない。なぜなら学識的リベルティナージュによって培われた批判精神の結晶は、人類を真理へと導く対価に絶望へと誘う禁断の果実だったのだ。宗教はすべての死生に意味、当為、起源、行先を以て希望を示す。たとえそれが酷く脆い救済であるにせよ、信じる者は救われる。しかし、叡智は退行を許さない。ゆえに真理を獲得し、キリスト的救済が不能となった失落者達は、皮肉にも自らを不幸に戒めた批判精神に基づき、新たなる救済を探らねばならなかった。〈救済の不在〉は、人類に死の恐怖或いは生の耐え難さを幾度なく突きつける。リベルタンの王、デ・バローの嘆きはそうした当時の悲壮を象徴する。「泣く、うめく、苦しむ、弱い者も強い者も、不確かな人生の運命の流れるままに、どれほど辛い道筋を棺へとわれわれは引きずられるか、貧しさ、病気、そしてそれに続く死。永遠の眠りが死の後に続く、生命から離れると、わたしは虚無に入る、ああ、痛ましきわが身の有り様よ!」。こうしてデ・バローは真理への導き手である理性をイヴを唆す蛇とし、情念に隷属された禽獣の道へとひき返す。すなわちキリスト教による救いの道を拒否したリベルタンが、その代償として得たものはパスカルの力説した「神なき人間の悲惨(Misère de l’Homme sans Dieu)」であったのだ(Pascal 1670)。デ・バローにリベルタンの王位を継承した学識的リベルティナージュ詩人テオフィル・ド・ヴィオーは、「人間の悲惨のトポス(topos de la miseria hominis)」をその生涯を賭して訴える。テオフィルの奏でる詩学は―予定説の世俗化ともとれる機械論的宇宙観に基づいて―悲観主義的調律が為され、〈救済の不在〉に起因する惨状が幾つも並べられる。救済の主たる恩寵は精神の安寧と祝福である。救済によって秩序化された善悪は、人類を誘惑する魔力に溢れ、当為の至上命令を齎した。テオフィルはこうした神の寵愛を我物と駆り立てる幻術を呪解し、審判なき善行が徒労に終幕する無慈悲なる生を「おお、宿命よ、お前の掟は何と過酷なことか!/われらの無実性など、何の役にも立たないのだ/善人の運命は何と過酷な出来事に/遭遇するだろう!」と憐れむ。また、そのようにして永生への道が途絶えた死は、救済を夢想する安らかな眠りから、無惨なる力学へとなり果てた。「死んだ愛する女の瞳のうちで生きていくのに、/充分なだけの強い魂を持っていると誓う人々は/肉体を破壊させてしまうおぞましい死がもたらす威力を/見届ける時間を持たなかったのだ。/そのとき混乱した感覚は機能が麻痺し、/顔面は目に見えて崩れ醜くなり、/精神は麻痺し、四肢はきかなくなり、/そしてさらばと自分に言い聞かせながら、もはや意識がなくなり、/やがて生命が消えた後、/顔はその皮膚から表情が消え、/悪臭放つ死骸の腐敗がわれらに開けさせるのだ、/その死体を隠す(葬る)ための穴を大地に」。いつしか〈救済の不在〉が示す惨劇はリベルティナージュの主題そのものとなり、現に、―悍ましき自然の無常なる摂理によって―悲観的な色彩に濁るテオフィルの詩調は世紀末まで残響した。もっとも、テオフィルが解剖した救済なき「人間の悲惨のトポス」は、彼の辿る軌跡が詩趣以上に哀愁を物語る。キリスト圏の顰蹙を買う瀆神的なリベルティナージュのスケープゴートとして隔離、投獄、死刑宣告を下され、死の間際に批判精神を放棄し、恩寵を求めてキリスト教に回心したテオフィルは、真理の招く絶望に苛まれ救済を窮乏する「神なき人間の悲惨」の全き証人となるだろう。

 失われた救済を求めて、悲観主義的な色調で時代を染めるリベルティナージュの詩学とその系譜を、我々は〈悲劇的リベルティナージュ(libertinage misérable)〉と呼びたい。テオフィルとその影響下にあるデ・バローが端緒をなした〈悲劇的リベルティナージュ〉の詩学は、学識性に基づく脱神話化―我々の偉大なる造物主は、意志ある人格神でなく、無為なる自然であることの露呈―によって顕となった残酷なる生の原理に絶望し、我々を纏う不条理を説く。「われらが死ぬ時、われらの内のすべては死ぬ。/死は何も残さず、自らも無だ。(...)/死の後に来るあの未来を/恐れることも望むこともやめよ。/消滅への恐怖と、あの無明の未来に/再生する希望で心を惑わすことをやめよ。(...)/われらは時の餌食となり、/自然はわれらをたえず渾沌へと呼びもどす。/自然はわれらを踏みしだきつつ、永遠の変化をつづける」。生を統べる無慈悲なる理の詩情は、果てなき世界の無常なる雄大さ、生得的な鉄鎖と宿命の抗いがたさ、あらゆる存在意義(raison d'être)の失効を人類に啓示する。ゆえに「死によって不安になり、悲観主義に陥り、強迫観念に悩み、実存を自分たちに耐えさせてくれる生の哲学を彼らは求めた」(Minois 1998)。そして十七世紀後半、禁忌を知らぬ幸福へのノスタルジー漂う〈悲劇的リベルティナージュ〉は、現世を楽園とするエピクロスの座標を便りとすることで栄華を極める。何処の桃源郷に想いを馳せることを廃し、地上を楽園とするヴィジョンは、真理の淵に蔓延る飢えと渇きを癒した。そしてそれは、かのポール・アザールに「リベルタンの典型」(Hazard 1932)と云わしめたサン=テヴルモンの言説に最も象徴的である。なかでも真理の淵、即ち思弁の地平が酷く醜いものにあることを知っていたサン=テヴルモンは、晩年、自らを賢王ソロモンの背信に投影する。三千もの箴言を説く知恵の象徴ソロモン王が、死差し迫る老境で色情に酔いしれるその所以は「恋愛は死の想いを逸らせてくれる。恋愛がなければ死は絶えず我々の心に生じてこよう。恋愛は想像による恐怖や、心の不安を散らしてくれるのである」として、絶望へと誘う思索からの逃避行にあった。老年にしてアヴァンチュールを往くサン=テヴルモンはそう考えた。それゆえ思惟に耽るデカルト的存在証明は絶望への手立てであると一蹴し、「我愛す、ゆえに我在り」などと学識性からエピキュリズムに転移する一つの法則性を表象する。愚かしい終局とされるソロモン王の背信。それはサン=テヴルモンにしてみれば、思索の末に真理と対面し有終の美を飾るソロモンの知恵なのであった。まさにテオフィルの影響下にあり、ソドムの王と称されたサン=パヴァンが色欲に耽るはこうした考えにあったからかもしれない。こうしてアヴァンチュールを嗜む華々しきエピキュリズムに、通奏低音の如く偏在するメランコリーを結ぶサン=テヴルモンは「我々の条件の苛酷さに打ち勝つことは難しい。けれど要領よく巧みにそこから逸れることはできる」として、パスカルが断罪する慰戯(divertissement)こそ「生に結びついた悲惨」から人類を分つ恩恵であると唱える。「我々を我々の惨めさから慰めてくれるただ一つのものは、慰戯である、しかし慰戯は我々の有する惨めさのうち最も大きなものである。なぜならこのものは、何よりも、我々が我々のことを考えるのをさまたげ、我々を知らずしらずのうちに滅びに至らせるからである」(Pascal 1670)。即ち、情念と戯れ悲惨を慰めるすべては、閉塞状態にある我々人類に唯一残された光明なのだ。悪徳と罰し放埒と罵られる戯れも、禁忌を侵犯せし惰性の触媒たる戯れも、我々を纏う不条理の数々を慰めるのならば、その道理は如何様にも存する。よってパスカル的当為律を反転させ、華々しきエピキュリズムを謳歌するサン=テヴルモンの一連とは、悲惨の侵攻をまえにした延命、忘却という延命であったのだ。しかし、ショーペンハウアーの言葉を借りるならそれは「この悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗することになるもの」にある。〈救済の不在〉と、その絶望が要請した世紀後半はまさにこうした仮象的救済の時代であった。それは、かのヴォルテールが師と称したギヨーム・アンフリー・ド・ショーリューにさえみられる。

理性を正しく用いることで明晰さがもたらされ、明晰さは世界のありのままを映しだす。しかし、ショーリューは叫ぶ。「なぜかくも悲愴な真実で己が思考を闇に染めるのか?虚偽と誤謬と激情を、群れなして還らしめよう。果たして過ぎ往く僅かな時間のうちで、思弁する是非があるのだろうか?」もし幸福が自己欺瞞と故意の偽りによってのみ達成されるのであれば、ショーリューは、この目的のために、知的な誠実さ、思考の明晰さ、そして彼にとって最も重要な考えをすべて犠牲にすることを厭わない。例えば、死後の個人的な生存の可能性について、答えは出ないことを彼は知っている。理性では、生存の可能性をよくて低いものとし、人間が死すと「大いなる無意識」に再び吸収されるだろうと彼は考える。しかし、死後もこの世で生き続けると信じることによって人間が幸福になるのであれば、その信念を奨励してもよいのではなかろうか?「私はむしろ人間の愚かさにゆだねることを好む。そして、地獄の存在を信じるが、それは美しいものとして見るのだ。」このように、狼狽や恐怖の束縛から解放され、草原の草花のあいだを歩みながら、甘い夢想の過ちをさまよう。ショーリューは己が半生を、言い逃れと自己欺瞞の連続だったかもしれないと気づき、最初の著書『死について』の中で、それを認めている。確かに神は、彼が幸せになろうとしたことを責めることはできないし、彼が「残酷なことが嘘の甘さを少しばかり罰する」と信じたことを許さなければならない。嘘の優しさを少しばかり厳しく罰するだろう」と。ショーリューは、自己欺瞞の必要性にうち克ち、理性に従って生きるために、すくなからず一度は努力する。彼は「嘘の愛らしい女王」である想像力を追い払い、老後には理性に従うために彼女のもとを去るようにと告げる。しかし、彼はすぐにその性急さを懺悔し、「過ちの母」なしでは生きられないことに気づく。「いや、女神よ。私は道に迷う。どうか、いつまでも私と共にいてください。運命が私たちに何を準備しようとも、あなたと共に立ち向かいます。苦い杯も、あなたのおかげで甘美なものに変わります。奈落の縁も、あなたのおかげで花で覆われます」(Rozenblum 1956)。 

シャトーブリアン曰く、「我々の悲惨と我々の欲求のために作られたこのキリスト教は、我々に絶えず、地上の悲嘆と天なる歓喜との二重のタブローを提供してくれる。そして、この方法によってキリスト数は、魂の中に現実の苦しみと遥かな希望の源泉を植えつけ、そこから尽きせぬ夢想が流れ出しているのである」。即ち仮象的救済に縋り、ただ逃れることを謳う当為命令は世俗化された神学倫理にほかならない。超越的な次元に外在する楽園への逃避。それは原罪の名を冠す悲劇的実存への手向にある。従って、幾世紀もの歳月を経て現実的世界の貶価を刻印された精神が新たな仮象へと向かうは、或る種の必然ではなかろうか。謂わば、アタラクシアとは内在化された楽園なのだ。また、そうした転移は第十のミューズを冠す貴婦人デズリエールが、その詩趣で夢想する無垢の黄金時代に示唆的である。アントワーヌ・アダン曰く「彼女の詩は、欲望や思考を消し去り、(…)精神の無知と情熱の沈黙を勧める。それは、罪以前の世界を想起させるものであり、そこでは、闘争も努力もなく無垢が君臨していたのだ」。同時代を生きたラ・ロシュフコーは「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」と云う。しかし、17世紀のリベルティナージュはこれを反転させた。すなわち、彼らは悪徳と偽装され、断罪された美徳の数々を解放し、人類を救う手立てとしてその価値と規範の可能性を我々へと問うたのだ。それは聖アウグスティヌスへ救済を冀求したペトラルカが、断罪する病原「怠惰」へと賛美のオードを贈るラ・ファールに象徴的である。「私はあなたの祝福を歌います、親愛なる怠惰よ、/ あなただけが私の心に平和を回復してくれました。(...) ああ!どれだけの間違いや誤解があるか / あなたに身を委ねる者の欺瞞を解きなさい! / 休息の愛に心を奪われた魂は / それ以外の法則を認識し、従うことができません。/ あなたは嵐の只中に平穏をもたらし、/ 荒々しい熱情に正当な制止をかけ、/ 偉大さに対する威厳ある軽蔑によって / 最も確固とした勇気さえも高めることができます。/ 平穏の不可分の伴侶、/ 怠惰は人間の幸福に必要なものなのです」。こうしてラ・ファールは―荒神マルスに抱擁をもってアタラクシアを授ける―美と愛の女神ヴィーナスを、ベルフェゴールに替わる怠惰の象徴として掲げるのであった。

§

 一七世紀後半以降、官能美に塗れるリベルティナージュを疎む反教義主義者は、理性を駆動し天智を夢想する哲学者(philosophe)へと改称し、エロティシズムに侵された往年の旧名を捨て去る。よって、十八世紀にリベルティナージュが冠するは、情念に隷属された禽獣の道を邁進する逸楽家の称号であった。そして次第にリベルティナージュは悲惨なる人間的実存という羅針盤を失い、現前へと誘われるエピキュリズムの盲人と化す。こうして学識的な心の自由から道徳的な風紀の自由へと限定されたリベルティナージュは王位継承と連動し、大衆文化へと拡がる互恵的な契機となる。太陽王の没する1715年、聖なる厳粛さと教理の逸脱者に科された圧政は終熄し、敬虔さも節制をも顧みず奔放に生を謳歌するオルレアン公フィリップの摂政時代が始まる。放蕩と大饗宴を公のものとするオルレアン公、次いで宮廷に公認の愛妾を従えるルイ15世は、快楽の世紀として名を馳せる新時代に恥じぬ導入部を為し、フランス全土は王宮に倣うことで放埒さを我物としていく。享楽主義的に酒と恋愛を咏う詩想、放蕩や快楽に溺れることを礼讃する好色文学、ヴァトー、ブーシェ、フラゴナールに散在する妖艶さを纏う甘美な表現と軽やかで世俗的な主題、ひいては新聞や年代記までもが公衆へと浸透する風俗習慣の急激な自由化を証言している。かくして、戒律に背き禁欲を棄却し、狂おしい愛と血の滾る誘惑の讃歌に身を焦がし、相互的な官能と情念を開花する一八世紀叙情こそ「風紀的リベルティナージュ(libertinage de mœurs)」である。18世紀のリベルタンは文学を主戦場とし、公衆の精神へ絶えず進軍することでバスティーユを陥落する。リベルタン文学は「一七四一年の三冊の本の出版とともに始まった。L=C・フジュレ・ド・モンプロンの『緋色のソファ』、フランソワ・ド・バキュラール・ダルノーの『性の技法』、そして特に『カルトゥジオ会修道院の門番であるドン・B***の物語』である。最後の作品はおそらくJ=C・ジェルヴェーズ・ド・ラトゥーシュによるものだと考えられているが猥褻な反教権的力技で、『女哲学者テレーズ』とともにアンシャン・レジームの終焉までベストセラー・リストの上位にあった。世紀中葉には好色な作品が印刷機から溢れつづけていた。そのなかには著名作家の作品も含まれていた。ディドロの『おしゃべりな宝石』(一七四八年)、クレビヨン・フィスの『ソファ』、ヴォルテールの『オルレアンの乙女』〔ジャンヌ・ダルクのこと〕(最初の出版は一七五五年で、その後他の者たちの手で加筆され、もっと猥褻な版が増刷された)、―それとともにもっと大型で挿絵の多いベストセラーが、C・J・L・A・ロシェット・ド・ラ・モルリエールの『聖職者の誉れ』、L=C・フジュレ・ド・モンブロンの『古着繕い屋マルゴ』、H=J・デュ・ロランの『アラスの蝋燭』、A=G・ムスニエ・ド・ケルロンの『カルメル会修道院受付口係の物語』などである。こういった本は一七六〇年代から一七七〇年代を通して増刷されたが、その時期は新作の生産が衰退していた。このジャンルは一七八〇年代には、ミラボーのポルノ作品 『エロチカ・ビブリオン』、『わが改宗、あるいはやんごとなきリベルタン』、『上げられたカーテン、あるいは修道院教育』ととともに再浮上した」(Darnton 1996)。片手に開演するリベルタン文学は、業火の如く燃え滾る昂奮に読者を駆り立てる。過剰な情欲に麻痺した精神に根を降ろす不信仰の言説は、思想を平伏させずして人類を神から引き剥がす。官能美を宿すエクリチュールは肉体的恍惚へと至るまで読者を隷属することで、色欲に紛れて瀆神論理の教化を成す。自覚症状なくして思想へと侵入し閨房を通じて伝染する精神的性病は、神話に基づき秩序化された諸原理への訝しさに留まらず、アンシャン・レジームを支える高潔なる血筋の放蕩的騎士道精神を鍛錬した。

「やはり若い女の抵抗に打ち勝つことほど甘美なものはないし、おれはこのことに関しては、常に勝利から勝利へと飛び移り、自分の望みを抑えようなどとは思わない征服者のような野望を抱いている。おれの欲望の激しさを止められるものはない。自分で自分に全地球を愛せる心があるのがわかる。そしてアレクサンドロスのように、自分の恋愛における征服を拡大できるような別の世界があればいいと思う」モリエールのドン・ジュアンが従僕を前に述べる有名な長ぜりふである。(...)王は開放的な性生活を例示し、宮廷貴族はその範にならう。だが徐々に高貴な生まれの女性が平民と混同される恐れが出てくる。ドン・ジュアンのように恋愛における誘惑を戦争や狩りと同列に置くことはアンシャン・レジームの思想に対応しているが、同時にそうした対比はアンシャン・レジームの価値観の崩壊や危機も示している。敵と格闘するというたくましい勇壮さが、誘惑者にはさほどの危険がない愛の口説きにしか発揮されない場合、勇気と騎士にふさわしい優雅さとの関係は崩れる。名誉はもはや身勝手な自己主張や犠牲者に対する軽蔑や独断的な特権でしかない。騎士にふさわしい洗練は粗暴に地位を譲る。(...)闘いは専門家の仕事となり、しかもフランス革命が起こり国民に戦闘意識が高まる前のこの一八世紀末には、仕事を持たざる貴族は女性たちの寝室に長居することで自分の兵としての役割を劇画化していたようだ(Delon 2000)。

 十八世紀的なリベルティナージュとは、アンシャン・レジームに準ずる支配者層の権威を腐敗させると同時に、被支配者層へ要請された自発的隷従の手綱を緩める。なぜなれば、エピクロスの復権を嚆矢とする快楽のプロジェクトは神に近しき国王と貴族を堕落させ、民を統べる現世の治者たる信頼を失墜させるのだ。しかるに、学識的リベルティナージュは寧ろ風紀的なものとなることによって王権神授の崇高さを剥奪する。そうした意味を示唆するが如く、ボードレールは「革命は官能的なる人々の手によってなされた(La Révolution a été faite par des voluptueux.)。(...)それゆえ、放蕩な書物というのは、大革命を解説し説明することとなる」(Baudelaire 1866) と遺すのであった。こうして階層化されたアンシャン・レジームから、フラットな市民社会へのダイナミクスが生じた18世紀末に、―天の悪戯が如く、始祖ヴィオーに均しき刑罰を下された―失われた羅針盤を抱くバスティーユの囚人が筆を執る。或る者は彼を「自由を生きる、さもなくば死を(Vivre Libre ou Mourir)」と誓う革命精神を患う病理学的残滓であるとし、或る者は唯我論的嗜虐性の権化たる文学的テロルの主犯と咎め立て、或る者はシュルレアリストの敬愛する聖公爵と記憶する。バスティーユの囚人が綴る比類なきエクリチュールは、リベルティナージュの総決算を冠するに相応しき叛逆思想を樹立した。かくして、その訓戒を知らずして悪徳を遮ること勿れ、その教説抱かずして実存を贖うこと勿れ。彼こそ、悲劇的実存の再臨を以て、あらゆる美徳へ愚の烙印を捺すリベルティナージュの帝王アルフォンス・フランソワ・ド・サド。即ち近世思想の極地である。

サドによって完成されたリベルティナージュの殊勲はラ・デュラン夫人の言葉に象徴的である。「リベルティナージュとは、あらゆる拘束の完全な破壊、あらゆる偏見に対する極度の軽蔑、すべての信仰の打倒、あらゆるたぐいの道徳に対する極めて激しい嫌悪を前提とする感覚の錯乱なのです」(Sade 1800)。また、これはブランショの言葉で補完される。「いかなる振舞も特権化されることはない。つまり、何をしてもかまわないという選択をすることことができる。重要なのは、そうすれば最大の破壊と最大の肯定を一致させることができるということなのだ」(Blanchot 1949)。「最大の破壊と最大の肯定」を冠するサドという肖像を悉に解するべく、ミシェル・フーコーによるニューヨーク市立大学バッファロー校での講演を紹介したい。フーコーは博士論文から晩年の著作まで長きにわたってサドを論じ、前期著作から「18世紀にはじめてサドが、彼以前にはその存在はなかば秘密のままであったリベルティナージュについて首尾一貫した理論をつくろうとする」(Foucault 1961)などと、優越せし地位を与えていた。フーコーの講演によると「サドの言説は、『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』の十巻を通じて、また『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』や他のすべての作品を通じて」人類史におけるあらゆる実践を支える原理―神、魂、法、自然―の「非存在証明」をすることにあるという(Foucault 1970)。そしてそれらの非存在証明を授かりし者は、全方位に存する否定命令を無効宣告する。

西洋の哲学的でイデオロギー的な言説の機能を逐一反転させている(...)サドの言説は、哲学的で宗教的な言説が肯定しようとしたことをすべて否定するのです。西洋の宗教的で哲学的な言説は、つねになんらかの仕方で、神を肯定し、魂を肯定し、法を肯定し、自然を肯定してきました。サドの言説はそれらをすべて否定します。その反面、西洋の哲学的言説は、これら四つの根本的な肯定、これら四つの哲学的主張から出発して、否定的な命令の次元を導入しました。神が存在するのだから、お前はこれをやってはならない。お前の魂が存在するのだから、お前はこれをする権利がない。法が存在するのだから、お前はこうしたことを断念しなければならない。自然が存在するのだから、お前は自然を侵してはならないというわけです。つまり西洋の哲学的言説は、四つの根本的な主張、四つの根本的な肯定から出発して、道徳と法の次元、命令の次元に、否定を導入したのです。反対にサドの言説のゲームは、否定を逆転させて、肯定されていたものをすべて否定します。神は存在しない。したがって自然は存在しないし、法は存在しないし、魂は存在しない。ゆえにすべてが可能であり、命令の次元において拒絶されるものはもはや何もないのです(Ibid.)。

すなわちサドは四つの「非存在証明」を以て全否定命令を無効化し、あらゆる実践を可能的な行為に昇華させ、〈絶対的自由〉を白日の下に曝したのだ。こうして幾層にも重なった道徳的高峰のすべては、サドによって完成されたリベルティナージュ的還元によって、フラットな地表と化す。 同時に、覆いかくされた残酷なる生の原理が姿を現わし「この悲惨な世界に自分の意志とはかかわりなく投げ込まれた不幸な人間が、茨の人生のうえに薔薇の花を咲かせるためには」、と充足の是非を我々に問うのである。こうして「牢獄の孤独の中でサドは、デカルトが身を包んだ知性の夜に比すべき」(Beauvoir 1955) 批判精神を以てして、信仰の〈絶対的自由〉を実践の〈絶対的自由〉という第一原理へと深化したのであった。

したがって、サドのその偉大なるエクリチュールは死にも比した、或いは形而上的死とも呼べる状態を人類によび醒ます。死とは崩れゆく肉体の予感、その有限性の告白をもってして生の不足をつきつける。ゆえに権威をもって我々を拘束する道徳の鎖は、死の前に無力だ。歴史が証明しているように、人類の多くは死期を悟ると己の在りたい姿に忠実になる。それは「かような時にこそ始めて真実の声が心の底から出るものであり、又仮面ははがれ、真価のみが残るからである」。よって諸論理が倒壊し、朦朧とする所与のなかで自由はその輪郭を確立する。それほどまでに鮮烈に、死は自由を照らす。その地点においてサドのエクリチュールは死の偉大さまでもへと接近するのだ。しかるにリベルティナージュ的還元の軌跡が、逃避行、自己欺瞞、怠惰など諸悪の渦に存する救済の解放を為すのは神の死、すなわち永生の道が途絶えることで、神によって遥か彼方へと遠ざかった死期が、彼らのもとへと突如としてさし迫ったことにあったのかもしれない。こうして二つの死は絶対的自由を啓示することで、各人を真価へと導く。すなわちリベルティナージュ的還元の招く破壊のダイナミクスは、「どう在るべきかではなくどう在りたいか」を問う当為論的転回へと馴化され、人類を肯う美徳の受胎原理は一新される。

全人類の母は、彼ら全員にあらゆるものに対する平等の権利を与えた。自然の秩序においては、誰もが、たとえ相手が誰であれ、自分によかれと思うことをすべて行うことが許されでいる。(...)あるものが人にとって必要であることを確証するには、その人がそれを望むだけで十分だ。そのものがその人にとって必要である、あるいは快い以上、それは正しい。(...)「ある行為が正しいか正しくないかは、それを行うものの判断だけに依存する」、とホッブズは言っている。このことが、その人を非難から救い出し、彼の振る舞いを正当化するだろう(Sade 1799)。

荒野は花園に、絶望は希望に、破壊は肯定に。万事を正す〈絶対的自由〉は、我々を美徳咲きほこる当為論的楽園へと飛翔させる。霧たちこむ夜闇のうちに、さだかならぬ虚空から燦然たる光が差し込むあの情景。あまねく道徳律が幻想曲を唄い、世界の細部へと優しさを運ぶあの感覚。いきとしいけるものは原初よりみな美徳と一つだったことを喚起させる甘美なあの瞬間。アルフォンス・フランソワ・ド・サドの名の下にすべてを肯うこの地平こそ、不可能性の只中に浮かぶ儚くも悠遠なる真実の救済、〈絶対的自由〉に適う楽園の表象なのだ。

かくして一八世紀末に完成されたリベルティナージュ的還元の論理が、如何に生を純化させ、真なる救済を顕とし、その先の本源的世界へと我々を導くか。それを明らかにしてきた。しかし幾度なく過ちを繰りかえす人類は「その他の動物と同じく偶然に左右されて、この世に生まれてきたおれたちは、まことに惨めな存在である」と憐れで残酷なる生を憂いだうえでなお、あらゆる当為や道徳的軛から逃れることに不安を抱くことだろう(Sade 1793)。そのとき再び〈悲劇的リベルティナージュ〉は、そのエクリチュールの軌跡を辿ることで美徳咲きほこる彼岸―解放奴隷(libertinus)―へと導いてくれる。愛と救済のベアトリーチェへと紡ぐ、使徒ウェルギリウスのように。

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幾世紀にも渡るリベルティナージュの終局が要請する相矛盾した善悪の承認。そして自由の自由に対する闘争。それが〈絶対的自由〉の社会的機能である。ゆえにリベルティナージュは啓蒙主義の病理的分身であるとして、各国では非難の的とされてきた。しかし、近代国家に採用される消極的自由が〈絶対的自由〉への途上において不可欠であるにせよ、そのもとに抑圧される者達も同様、望まずして生を享けた者達であることを忘れてはならない。誰しもが不可抗かつ不条理に生が始まったのであり、如何なる在り方も許される社会でなければ、生が全面的に浮かばれることは叶わないのだ。たとえそれが困難な道にあるとしても、〈絶対的自由〉の実現のみが人類にとって真に道徳的な救済たりうる。スイスの青年は云った。「理想主義のない現実主義は無意味である。現実主義のない理想主義は無血液である」(Rolland 1919)、と。よって我々はリベルティナージュの論理を、政治的連帯へと昇華する手立てを提案したい。その本懐は、誰しもが共有する普遍当為の樹立になく、志向性の次元にある。従ってリベルティナージュの帰結に政治的手続きを施すは、不条理な生へ贈る夜想曲(Nocturnes)として。そして、悲劇的な宿命を科された同胞への手向として、誰しもが報われる一つの地平を構想することにあるのだ。ジャン=ジャック・ルソーはそうした薄れゆく遺志を政治化した〈悲劇的リベルティナージュ〉の系譜に位置する。救済なき人間の悲惨をパスカルから継承するルソーは、憐れなる生に神なき応答を試みることで〈悲劇的リベルティナージュ〉の或る種のヴァリエーションを奏でた。一般意志と共和政へ紡がれるフィナーレは現代まで轟く一大叙事詩となったが、生の残酷なるプレリュードこそルソーの思索湧きいずる淵源にある。

ルソーはパスカルの人間告発を真剣に取り上げ、その問題の重大性を余すところなく感じとった十八世紀最初の思想家であった。ルソーはこの告発を和らげることなしに、そしてヴォルテールのようにそれを穿鑿ずきな厭人家の自虐気分と考えることなしに、この問題の核心へ肉迫する。パスカルが『パンセ』で描き出した人間の偉大さと悲惨の描写は、ルソーの最初の著作である懸賞論文『学問芸術論』および『人間不平等起原論』のなかに一言一句再現されている。(...)人間が俗世間や社会で多彩な活動をしたり気晴しのために動き廻るのも、偏えに彼が自分一人だけの存在に耐えられず、自分自身を直視するに忍びないからに他ならない。これらの休みなく目的なき活動は、すべてが静寂を怖れる心理に発している。実際に人間が仮に一瞬間でも自分自身の状態に立ち帰ってその状態を明瞭に意識するならば、彼は必ずや極端に救いなき絶望に陥るであろう。(...)彼はいかなる種類の弁疏や手加減をも考えることなく、パスカルと同じく人間の現在の状況が最も救い難き堕落であるとみなした。だがルソーは確かにパスカルの論証の出発点であったこれらの現象を承認したけれども、他方で彼はパスカルがその神秘主義と宗教的形而上学にもとづいて提起した説明根拠を受け入れることをきっぱりと拒否した。(...)ルソーの『エミール』は次の言葉で始まる。「万物の創造者の御手を離れたときはすべては善である。すべては人間の手中で堕落する」。こうして神の責任は取り除かれ、すべての悪に対する責任は人間に帰せられる。だがこの責任はあくまでも「現世」に属して「来世」には属さない故に、そしてそれはまた人間の経験的・歴史的存在に先立つものでなくこの現状から発現する故に、われわれは自らの救済と解放をこの地上でのみ求めなければならない。天上からの救い、超自然的な援助は決してわれわれを解放しはしない。われわれは自力で解放を実現して自らそれの責任を引き受けなければならない。(...)今までの社会の強制形態が崩壊してその代りに政治的・倫理的な共同体が、すなわちそこでは各成員がもはや他人の恣意には隷属せず、成員各人にとって自己のものと認められる一般意志のみに服従する共同体の新しい形式が出現する段階で、初めて人間解放の時は到来するにちがいない。だがわれわれはこの救済を外部に期待しても無駄である。神が救済をもたらすのではない。人間は彼自身の救済者に、そして倫理的意味において自分の創造者にならなければならない。今までの形態の社会は人類に非常に深い傷を負わせてきたが、変形と改革によってこの傷を癒すもの、そして癒さなければならないものも同じく社会なのである(Cassirer 1932)

かくして、神なき人間の悲惨を受容したルソーは社会彫刻の是非を人類に問うたのであった。そして、〈救済の不在〉が指揮する悲観主義的な旋律。それはせめてもの救いとして、我々が往くこの世界を理想に適う楽園へ導かんとするプレリュードにあった。ゆえに一般意志や共和政とは、現世楽園化の方途に過ぎず目的にない。この意味でルソーとはリベルティナージュの全き系譜に位置するのだ。それを示唆するが如く、人類が共有する悲劇的実存への「憐れみ」にリベルティナージュ的連帯の喚起を求める。「私たちが自分たちの同類に対して愛着を持つのは、彼らの喜びを考えることによってではなく、彼らの苦しみを考えることによってである。というのは、私たちはそこに自分たちの本性により一致するもの、そして私たちに対する彼らの愛着を保証するものを見出すからである。私たちに共通の必要は利害によって私たちを結びつけるが、私たちに共通の悲惨は情愛によって私たちを結びつける。(...)こうして燐憫(pitié)が生まれる」(Rousseau 1762)。ルソーは「人間を社会化(rendre sociable)するのはその弱さだ。わたしたちの共通の惨めさ(nos misère communes)こそが、わたしたちの心に人類愛をもたらす」(Ibid.)と謳い、前ロマン主義的色調で〈悲劇的リベルティナージュ〉の論理を政治的連帯へと昇華させた。従って一七世紀中葉より世相を支配した〈救済の不在〉と絶望の数々は、連帯を養う燐憫の礎へと転化する。「実際に寛容とは、慈悲とは、人間愛とは何だろうか ─それが弱者や罪人や人類一般を対象とした憐れみの情でないとしたならば。善意や友情すら、よく考えてみれば、憐れみの情が特定の対象に、長いあいだ注がれるうちに生まれたものなのである。というのも、誰かが苦しまないことを望むということは、その人が幸福であることを望むことにほかならないではないか」(Rousseau 1755)。 かくしてその雄大で深淵に広がる神さながらの慈悲と愛で、アイヒマンやユダさえをも抱擁する燐憫を以て連帯し、〈絶対的自由〉へと臨む共同体的志向性を、我々は〈リベルティナージュ・ユニヴァーサリズム(Libertinage Universalisme)〉と宣言したい。

ユニヴァーサリズム(以降、万人救済主義)とは、アダムから終末までの「いきとしいけるもの」すべてが主の慈愛と恩寵を授ると謳う教理を意味し、アレクサンドリアの神学者オリゲネスをその始元とする。あらゆる実存に赦しを与え、無限の慰めを齎す万人救済主義は、神学的アポリアを越える一つの倫理的命題を訴えた。それは悲劇的実存を科された万人が救われる未来のほかに、神が義において栄光のうちに輝き、それゆえ賛美にふさわしいお方にあることを示す神義論などあるのだろうか、と限定贖罪の道義的不協和を問うたことにある。換言するならば、これほどまでに残酷な生を不可抗に背負う人類へ報いるは、万人救済にしか即さないことをオリゲネスは知っていた。たとえそれがドグマに反するといえども、寛大な神の御心に適う教理は普遍贖罪にしかないことをオリゲネスは知っていた。従って万人救済主義者は「すべての人間が神のさばきの下にあるように、すべての人間は究極的に、神の憐れみにあって究極的に永遠のいのちへと運命づけられてる」(C. H. Dodd)とし、悲劇的実存、即ち原罪を贖う「回復(apokatastasis)」をその核心とする。そしてこれらはジャン・スタロビンスキー曰く、ルソー的当為の次元においても同様に、未分化の構造をもつ。誕生そのものを起源とする病〔=原罪〕とは「その出だしでいきなり自分の生を、最初の病の支配下に置いてしまう」のであり、その病は「生を根本から規定しつづけることになる」のだ(Starobinski 1989)。​

「(...)生まれたこと、それが私の最初の不幸であった」。そしてこの痛手から(あるいは、痛手があると思い込みそれを語ることから、と言ってもよいが)癒されよう、救われようとして、彼はあらゆる手段を試みることになるのだが、しかし自分の誕生そのものを原因とする病なのだから、生きているあいだはどこまでも癒される保証はない。(...)『告白』の語りにおいて、原初の病というテーマは、治療(広義の)というテーマとほとんど分かち難く結びあっている。病と、それに戦いを挑む治療との、共犯関係。救いをさしのべられたおかげで、ルソーは生きのびることができた。(...)こうして、驚きと憐みとが同時に呼び覚まされることになる(Ibid.)。

​それだけにルソーはセネカの句を『エミール』の題辞として引用したのだろう。「私達は治療可能な[sanabilis]病で苦しんでいる。もし自らを正そうと[emendari]と望むならば、自然〔本性〕そのものが正しい誕生へと私達を支える」。それ即ち〈絶対的自由〉である。しかし、全当為命令を喰らう叛逆精神を受肉するリベルティナージュ的還元に比して、自然が誕生と共に齎す生得なる〈絶対的自由〉は脆弱性を孕む。現に英雄が騎手となる当為論的侵攻が凱歌をあげた歴史が物語るは、例外なく善悪に対する自由の敗北を意味するだろう。不可侵なる〈絶対的自由〉を齎すリベルティナージュの加護は、自然本性の高次元での回復を可能とする。そしてそれはエデンの園、失楽園、楽園回帰に対応する。無垢が獲得する自由に始まる我々は、幾千年もの文明化を経て自由を失い、その果て、「自然に還れ」と自由の高次元での回復を求めた。​ゆえに「今までの形態の社会は人類に非常に深い傷を負わせてきたが、変形と改革によってこの傷を癒すもの、そして癒さなければならないものも同じく社会なのである」(Cassier 1932)

かくして、神なき人間に残された共同体的志向性​はリベルティナージュ・ユニヴァーサリズムへと帰結される。​​すべてを美徳へと肯う〈絶対的自由〉の回復と、悲劇的実存への憐れみを基礎とする前ロマン主義的連帯。それらが構想するリベルティナージュ・ユートピアは、ユニヴァーサリズムの名に相応しき真実の救済となるだろう。然れど、​ヴィオーのように平静を求め回心するも、サン=テヴルモンのように不断に続く逃避行に耽るも、ショーリューのように偽りの夢想を彷徨うも、宿命のなかで僅かにみいだされた救済を咎めることは生の道理に反する。なぜなれば、我々は残酷な原理を共有する等しき同胞なのだから。ただ、願わくば、不条理な生を享けた万人が救われる地平を我々は提案したい。そしてその旅路を数多の同胞と共に往くことを、ここに誓いたい。「いきとしいけるもの」すべてが悲劇的実存を肯うことのできるその日まで。

§

人類は原初より酷く悲劇的な宿めを背負う。望まずしてこの世に生を享けた我々は前進することを強要され、求めずとも死という有限性が出来し、如何なる存在意義を見いだそうとも無境に遮断される。そんな不条理に嫌気が差し、自ら死を手中に収めることを望めば、今度は恐怖が肉体を巣喰う。生の諸原理はこうして人類を一つの道へ誘う。それは自然法則を受けいれ、そのもとに生を歩むことだった。

しかるに生と死の原理に諦観し飼いならす者は、せめてもの自由を獲得できるはずであった。

これほどまでの悲劇に苛まれた人類の営みを咎めることは、本来、為しえないはずであった。

しかし、自然の織りなす非情性が覆いかくされた現代。生を享けた我々は、教育と法律を触媒として善悪の精神的磔刑に処され、絶えまなき再生産へと加担してゆく。そうして出荷される瑣末な道徳律を纏いし人類。その無垢なる残酷さは、禁書に存する如何なる肖像をも凌ぐであろう。ゆえに、幾千もの年月をかけて制約を科した文明とは、憐れな生に僅かに残された権利さえ剥奪された失楽園なのであった。

我々人類は皆酷く残酷な生の原理から始まるゆえ、せめてもの救済として自らが望む生を謳歌する自由がある。そしてそれを毀損する権利など、本来誰ももちあわせてはいない。よって「人間としてこの悲惨な世界に自分の意志とはかかわりなく投げ込まれた不幸な人間が、茨の人生のうえに薔薇の花を咲かせるために」、リベルティナージュは〈絶対的自由〉を謳う。それが不条理なこの世界に生を享けたあらゆる実存への、せめてもの手向となるように。我々はいまそれを再興し、〈絶対的自由〉たる所以が道義的に在することを謳う。そうでなくては、不可抗に始まる生が全面的に報われることなどないのだから。

ゆえにリベルティナージュ・ユートピアを冀求する。

悠久なる人類が為に、悲惨なる境涯で死した幾千万もの生が為に、そして自らが為に。

不条理なる生に、せめてもの救済を。

(2) リベルティナージュの叛逆譚が拓いた道は、「存在するものをすべて無化するとき、人間はみずからの自由を完全に行使することになる」と謳う実存主義の響きを有する。されど、サドが明らかにした絶対的自由とは、実存主義のそれより遙かに深淵な自由である。サルトルが、我々は佳境に陥ったとしても、不安と孤独と責任に苛まれながら人類全体にむけて投企しなければならない、として「自由の刑に処されている」絶望を訴えるとき、リベルティナージュの当為はそれをも無化するだろう。望まずして生を与えられた我々が自由に生きなければならない道義などどこにあろうか。管理社会のシステムとして歯車になることを望む自由は許されて然るべきである。リベルティナージュに基づく自由が保証するは、不条理なる生に対する道義であって存在の原理ではない。

(2)

(3)

(1) 真理によって閉ざされたこの世界で、逝き場を失くした〈悲劇的リベルティナージュ〉の詩学が患う、無力さ、耐えがたい倦怠、厭世、焦燥渦巻くメランコリーは、まさに一九世紀初頭、大衆に蔓延した「世紀病(mal du siècle)」そのものであった。シャトーブリアンが「情念の空漠性」と呼び、コンスタンが「今世紀の主要な精神的な病のひとつ」と呼んだこの実存症状は、〈悲劇的リベルティナージュ〉のもとに生まれ、二世紀もの歳月をかけてようやく世相へと表出される。フォルテュナ・ストロウスキー曰く、シャトーブリアンは「パスカルのうちに世紀病を見出した」。このことは一七世紀人の幾人かが既に世紀病患者であったことに示唆的である。バロック調と啓蒙主義において、その輝きの影に隠蔽された世紀病はフランス革命の遥か前より偏在し、〈救済の不在〉にその起源を有するのだ。また、メランコリックな詩情が「魂の苦悩や、感受性が存在の中に見出させる虚無や、生の消耗から死という未知なるものへ」の深い思索へと誘うのに対し、「快楽の詩は、ほぼすべての秩序だった考えを排除してしまう」などと、世紀病を患うスタール夫人が憂うその本懐は、エピクロスと手を結び、悲劇的実存という羅針盤を失ったリベルティナージュ史への嘆きにあるのかもしれない。

(3) しかし、こうした一連の審級に不整合を来す住人がサドの言説空間には幾度なく流離う。彼らはいつしか〈神に替わる造物主たる自然〉を公然と神聖化することで、新たなる教理に基づいて善悪に再秩序化を施し、欺瞞と倒錯に溢れた普遍道徳抗争へ加担するのだった。この解釈の地点において、ボーヴォワールのテーゼは二重化する。デカルトは合理論者と有神論者という二律背反を、前者に基礎づけることで可能とした。しかし、デカルトの合理化方程式は様々に継承・精微化されたことで、皮肉にも神を討ち倒すエクリチュールへと錬成されてしまう。サドの言説空間に住まう幾人かは自然信仰のもとに、快楽、悪徳、強者を特権化する。他方、彼は〈救済の不在〉を謳い、絶対的な自由を完成させた。しかるに、サドが〈絶対的自由〉を棄権し、デカルトの失敗を追うなどして自然の特権化言説を本意とするならば、サドの否定方程式は造物主の当為命令をも対象とし、無効宣告を下すだろう。よって「この悲惨な世界に自分の意志とはかかわりなく投げ込まれた不幸な人間が、茨の人生のうえに薔薇の花を咲かせるために」、「自由と権利の全面的な所有」を授けたならば、真理に仇なし、偶像を崇め、秩序化された善悪に自らを委ねる弱き生は肯われる。ここに万人救済の思し召しが為された。そうした順序を追うことで、我々は「善き未開人」として再び神、魂、法、自然に臨むことができるのだ(Delon 2000)。

(4) アーレントは「私たちは(...)燐憫によって感化されたロベスピエールの徳が、その統治の初めから、いかに正義を潰乱し法を軽視してきたかを、想起することができる」として、憐れみが際限なき残酷さを有す「徳のテロル」へと転移することを警告した。然れど、我々には不要の懸念であるだろう。悲劇的実存に位階制は継起しない。すべての人類が共有する不条理なる宿命にリベルティナージュ・ユニヴァーサリズムは嘆き、憐れみを以て連帯を結ぶのだ。よって、たとえ万人が救われる楽園が近づこうと、オメラスで留まることは決してないだろう。

したがって天上の慈悲に替わり浄福の享受を再臨させるエピキュリズムは、悲劇的なる生へせめてもの救済を冀求するリベルティナージュ的還元のプロトタイプを準備する。背信のテオフィル、禽獣のデ・バロー、色欲のサン=パヴァン、逃避のサン=テヴルモン、欺瞞のショーリュー、無垢のデズリエール、怠惰のラ・ファール。彼らが織りなす仮象的救済のシンフォニーは、かくして一八世紀末に宿る根源へと紡がれるのであった。

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